SFORM UND MALEREI A TTISCHER SCHALEN』をテーマとし,紀元前六世1)の杯へと進歩させたのであるが,彼はまた杯の口径と脚部台直径の比率を1対0.38の「ギリシア及び南イタリアの作陶技術」,E.A.マッケイ氏(ナタル大・南アフリカ)の「エクゼキアスのアンフォラ」,M.オーリイ=ドウム博士(ミュンヘン陶器美術館)の「エウテュミデスの画家と作陶家ソシアスについて」などの講演に参加者の注目が集まっていた。筆者は,会議第4日目の午前11時45分から第二部会で「作陶家エウフロニオスとピュトン_~のテーマの下に発表した。それは,1978年2月に西ドイツのボーフム大学に提出した学位請求論文に示した理論を応用した内容であった。学位請求論文は『UNTERSUCHUNGENZUM VERB.AL TNIS VON GEF心S-紀半ばから同5世紀末迄のアッティカ製作(キュリクス)に関し,故J.D,ビーズリー教授が確立した装飾画の作家別分類,H.ブロッシュ教授の作陶家別による杯型の分類の二大研究を基礎に,杯画と杯型の間の相関関係を探ろうとするものであった。筆者は右の目的達成のために,できる限り多くのオリジナル資料の実測に努めたが,その結果総計517点の資料を調査することができた。こうした準備作業の結果,杯のプロボーションに関し,興味深い現象を発見することができた。紀元前530年から同525にかけて,フカリ,「アンドキデスの画家」により,それまでの黒像式画法に加えて新しい赤像式画法が発明されたのと時を同じくして,作陶家ヒスキュロスは,従来の平底の脚部台を持つ「AZ型」から,細いリング状の突起が杯を支える「AY型」(図というプロポーションに2パーセント以内の誤差で正しく統一したのである(表1参照)。杯は通常ドーリス尺(約32・6■7cm),及びアッティカ尺(約29.6cm)をに製作されたと筆者は考えるが,その何れの場合をプロポーションは不変であった。1対0.38というプロポーションは,その後新しい「B型」杯が出現しても,あたかもノルムのように厳しく守られ,少くとも紀元前470年頃まではその状態が続き,以後5世紀末まで1対0.38のプロポーションの存在が確認できる。そして,このようにアッティカ陶器を支配していたプロポーションはまた,幾つかの神殿,例えばアイギナのアファイア神殿やオリンピアのゼウス神殿のステュロバテスの幅と柱高(アファイア神殿の場合は,ステュロバテスの幅:13.80米,柱の高さ:5.27米)の間の比率にも認められるのである。実はこの比は,いわゆる「黄金分割」に基づくのであり,このプロボーションの存84-
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