を示している。円山派の画家の手になる解剖図は,応挙様式とその展開を考える上で,非常に重要な,そしてまた新たな話題を提供してくれるものである。調査の三つの例を掲げてみた訳であるが,円山四条派の作品が今に伝えられてきたその実態が明らかになると同時に,こうした調査を通じて,層の厚い基礎資料が形成されつつあることを実感することができる。(4) 7世紀後半の仏教美術の研究研究者:早稲田大学文学部助教授大橋一研究報7世紀後半の美術を明治以来「白鳳美術」と呼んできたが,昨年昭和58年にはこの時代の寺院址の一つである山田寺の回廊址が発掘された。山田寺の回廊といえば,昨年秋の発掘調査でその部材が地中から出現し,マスコミをにぎわせたことはま憶に新しいが,昨年春の発掘でもまたもやおびただしい数の瓦とともに組物等の部材が姿をあらわしたのであった。私はこの報を聞〈や早速現地をおとずれ`本調査研究”の第1回調査として発掘の状況をつぶさに調査し,写真撮影をすることができた。ところで白鳳時代の仏教美術が飛鳥時代のそれと大きく異なる点は官寺が出現したことであろう。飛島時代は蘇我氏の飛鳥寺を中心に各氏族の私寺がつくられていたが,白鳳時代になると天皇家の寺である勅願寺,すなわち官寺が造営されるようになった。つまり国家自らの寺の造営に携わる時代になったのである。してみれば,その時代の最高水準のあるいは最新の技術をもったエ人が組織され,造営事業に参加したであろうことは充分考えられる。つまり白鳳時代の仏教美術はこの官寺造営組織がリードしていったのではないか,というのがこの数年間私が描きつづけてきたデッサンである。さてこの山田寺は私寺として出発したにもかかわらず,造営の途中で壇越蘇我倉山田石川麻呂家の断絶があり,そのため工事は中断してしまった。のこされた寺の僧侶たちが朝廷に働きかけた結果(石川麻呂の孫娘で,天武皇后となった持統天皇の尽力があったと思われるが),運よく造営工事が再開され,発願以来40年以上も経てやっと天武朝に完成したのである。この間の経緯についてはすでに小論を発表した。昨年目のあたりにすることのできた山田寺回廊址はおそらく天武朝ころの建築と思われるが,私見によれば,塔・講堂・回廊及び講堂本尊(現興福寺蔵仏頭)は官寺造営組織の一部がその工事を担当したのであろう。`本調査研究”の開始にあたり,山田寺の発掘に48-
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