立ち会うことができたのは,7世紀後半の仏教美術を研究課題としている私にとってはまことに幸運であった。つづいて秋には,九州太宰府の観世音寺の調査旅行と奈良の本薬師寺址及び薬師寺れるが,文献的裏付けがはっきりせず,創建時の事情がつかめない寺である。しかしなから7世紀後半のそれも勅願寺の一つといわれているが,奈良の百済大寺・川原寺・薬師寺・大官大寺(百済大寺の後身)と比較するとーランク低い勅願寺であろう。その観世音寺では塑像断片をとの関係が想いおこされる。川原寺にも地仏をはじめ多くの塑像が安置されていたのである。観世音寺は近江の崇福寺とともに天智天皇の発願で,川原寺もまたしかり。さらに三寺に共通する伽藍配置や崇福寺址からも地仏が出土していることからも,こ片を知り得たことはまことに意義深いことであった。私はこれらの調査旅行とは別に,この一年間先行論文や関係資料の収集をしてきたが,中心の研究は官寺造営組織が如何なるもので,その起源は何時かということであった。飛鳥時代にわが国初の本格的寺院である飛鳥寺を造営したエ人組織は,いうまでもなく蘇我馬子の支配下にいたのであろうし,その本拠は飛鳥寺にあったと思われる。飛鳥時代の仏教界では飛鳥寺があらゆる面で中心的存在であったが,飛鳥寺の造営組織も時代をリードし,しかも他の氏族の寺院造営に力を貸していたのではなかろうか。ところでわが国初の勅顧寺である百済大寺は舒明天皇の発願で,舒明の周辺には当時新帰朝の遣唐留学僧たちがいた。この僧侶たちは明らかに飛鳥寺の僧たちとは別系統で,大化改新後は飛鳥寺に対抗するような存在にまで成長する。私はこのような僧侶たちのあと押しで百済大寺は発願されたのではないかと考えているが,その造営グループはどのように調達したのであろうか。飛鳥寺造営組織を使ったのであろうか。この間のことについて,文献史料は何も伝えない。しかし注目したい史料がある。「大安寺伽藍縁起井流記資材帳』には,舒明御後,即位した皇極天皇が夫舒明の百済大寺の造営を引き継ぎ造寺司を任命したことが記されている。そこには阿倍倉橋麻呂と穂積百足の名がみえるが,前者は蘇我打倒後の改新政府の左大臣であり,後者は壬申の乱の時の近江方の人物であった。おそらく二人は反蘇我の人物で,皇極の宮廷につながる人であったと思われる。このようなと興福寺仏頭の調査を行った。観世音寺は天智朝の発願と伝えらしたが,創建時のものであるならば,中央の官寺川原されていた仏像にも共通性が推測できるが,この調査旅行で塑像の断-49-
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