1)具象から抽象へ人物を百済大寺造営の責任者として任命していることは,蘇我氏への対決姿勢ではなかろうか。さらに興味あることは,『日必要な労働力の徴発を命じている。百済大寺の造営はこのような状況のもとに進められていくが,蘇我氏主導の飛鳥時代から天皇家主導の白鳳時代へ,まさに百済大寺の造営はその転機に位置する。このような官寺造営組織の起源とそれにつづく変遷については,近々のうちに論文のかたちで発表する予定である。(5) アナトリア・バルカン・エーゲ海地域の先史時代の小像に関する調査研究研究者:大阪大学文学部助手大村正研究報その1アナトリアの小像の展開新石器時代から初期青銅器時代に至る先史アナトリアの小像(旧石器時代の小像彫刻はまだ発見されていない)を概観するとき,具象的形態と抽象的形態に区別して観察することができる。前者は,チャタルフユック(CatalHtiytik),スベルデから出土した小像に代表される。これらの小像は,豊満な肉体の具体的表現であり,マッシブで強い実在感をもつものが多い。またそのポーズの多くも日常的である。これに対し後者は,概して小型で薄く,非常に便化された形態,もしくは抽象的形態をもつ。最も抽象化の進んだ小像は,セマユック(Semayuk)やベイジェスルタヴァイオリン型もしくはダルマ型の薄く平たい外形があるのみで,ほとんど細部表現はない。これ程までに抽象化されていなくても,金石併用時代以後の小像の多くは,手足が胴体に収敏され,その薄い胴体に,ボタン状の乳房や下腹部の三角形として女性の身体的特徴が表現されている。後期新石器時代から初期金石併用時代にかけての小像の形態が,具象から抽象へ変化したことを,編年学的に明確に示している遺跡はハジュラルである。この遺跡では,他の諸要素から,新石器時代と金石併用時代に民族の交代があったとは考えられない。ただし,金石併用時代は,壁がんに納められていた人面が簡略に線刻さ(Suberde),ェルババ(Erbaba),ハジュラル(Hacelar)等の新石器時代の層位ン(Beycesultan)から出土しているヴァイオリン型偶像である。これらの小像は,によると,皇極は蘇我蝦夷に対して寺の造営に-50
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