鹿島美術研究 年報第2号
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手にしているときもある。このような王の後方に,有翼精霊が小さな籠と松毬状のものを持ち,付き添っているのである。現在までにこの種の場面は様々に解釈されて来た。有翼精霊は王の後方から松毬状のもので聖水を振りかけ,清めているのだろうとわれてきたが,彼らが同様のポーズを聖樹の傍らでとるときには,聖樹を受粉させているとも言われ,同様の動作に対して異なった説明が与えられているのが実状である。このように図像の解釈が難しいことの大きな理由のひとつは,浮彫表面に画像とともにしばしば現れる楔形文字銘文が,一般的な王の肩書きや武勲の羅列にとどまり図像の説明になりそうなことを述べていないこと,そして他の記録,文書にも浮彫の説明に役立つようなことが少なくとも直接利用できそうな形では見当たらないことにある。古代メソポタミアにおいては,このようなことは珍しくない。しかし,視点を少し変え,上述したように浮彫のテーマを抽出しその変遷を辿る作業を行ってみると,宗教的題材を扱った浮彫に関し気付く事柄が浮びあがってくる。すなわち,この種の図柄はアッシュールナツィルパルの宮殿浮彫に特に多く見られ,サルゴンの宮殿浮彫に有翼精霊の姿がいくつか認められるものの,前7世紀の作品からは全くと言って良い程姿を消していることである。勿論,前7世紀のものに見られないことが実際に制作されなかったためか,また現存作品が無いだけのことなのなかにいては,問題が残ろう。しかし同時に気付くことに,浮彫の画面から前9世紀には頻出していたアッシュール神のシンボルが,前7世紀には姿を消しているという事実があり,これは先に述べた宗教的題材が見られなくなることと,奇妙にも呼応する。そして前9世紀から7世紀まで,戦闘をテーマにした浮彫が一貫して彫り続けられていたことを考え合わせると,宗教的テーマの減少は留意すべき事柄であることが明白である。新アッシリアの浮彫のなかで宗教的場面の表現の占める割合が時代により変化していったことと宗教的場面の解釈とは,思いの外密接に関連しているのではないかと想像される。紀元前9■ 8世紀の頃のアッシリアは,メソポタミアにおいては最も有力な政治勢力であったとは言え,メソボタミア北部に本拠を置き,南部の進んだバビロニア文化を十分に吸収しきっていなかった。アッシュール神を中心とする非常にアッシリア的な宗教体系を保持していたのである。しかし,サルゴン以降の王たちは,バビロニア地方を政治的に掌握する一方で,文化的にはバビロニアに傾倒して行った。宗教的にも,バビロニア系の神々のうちの幾人かが,最も有力になり尊敬を集め,ァ-82

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