そこの壁面に≪ジュリアーノ≫の脚部が模写されていることからみても(10)公爵像制作の遅さは明らかである。“彼は,永遠にフィレンツェを去りローマヘ向う1534年9月以前に,両公爵像を安置した”とヴァザーリは『モントルソーリ伝』(1568)で報告する。≪聖母子≫は後に他の作家によって安置され,河神像はついに一体も完成されなかった。≪聖母子≫が低い位置に設置されたのは両公爵像の視線からみれば妥当な処置であったと思われる。その位置に関してはミケランジェロから指示があったのではないだろうか。河神像が彫られなかったのもこの≪聖母子≫の位置の変更と係りがあるように思われる。こうして検討してみると,ミケランジェロは礼拝堂において異教的・中世的な宇宙観を要約しているうちに,「視線の集中効果」に気付き,礼拝堂の建築と彫像とを統合する理念を失ったかに見える。その変化は極めてダンテ的聖母崇拝の感情に基づいていると思われるが,その心理的原因の一つは礼拝堂建設監督官G・フィジオヴァンニ(「覚え書き」参照(11))に危うくも命を救われた体験もはいるだろう。しかし,この「視線の集中効果」をミケランジェロが造形上どのようにして創造したかについては,資料に基づく一層の研究が必要である。(主要参考文献)(1) F. Harrt, Michelangelo. The Complete Sculpture, New York, 1968. (2) K. Borinski, Die Ratsel Michelangelos. Michelangelo und Dante, Mtinchen, (9)平川祐弘訳,ダンテ『神曲』,河出書房,昭和43年(10) P. Dal. Poggetto, I disegni murali di Michelangelo e della sua scuola nella 1908. (3) C. de Tolnay, Michelangelo : III. The Medici Chapel, Princeton, (1984) 1970. (4) E. Panofsky, Neoplatonic Movement and Michelangelo in Iconology, New York, (1939) 1967. (5) C. de Tolnay, Michelangelo : V. The Final Period, Princeton, (1961) 1970. (6) H. Grimm, Leben Michelangelos, Hannover, 1860-63. (7) E. Panofsky, Tomb Sculpture, New York, 1964. (8) B. Nardini, Michelangelo. La Vitae L'opera, Firenze, 1972. Sagrestia Nuova di San Lorenzo, Firenze,1979. (ll)A. Parronchi, "Una ≪Ricordanza≫ del Figiovanni sui Lavori della Cappella e della Libreria Medicee" in Opere Giovanili di Michelangelo, Firenze, 1968. 93
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