鹿島美術研究 年報第2号
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も文献も無いに等しく,模写らしきものがあったとしても,それらがミケランジェロ自身の構想を伝えているのか,それともミケランジェロがフィレンツェを去った1534年後の或る設置者の案を伝えているのかを判断するのは今後の課題であって,これまでは殆んど顧慮されなかったといえる。ミケランジェロ自身のものと確実にいえる習作からは,図像上の問題としては河神像,石棺上の寓意像,両公爵像,そして不明瞭な聖母子群像が確認できるだけである。それらの細部は不明である。前述した諸解釈の混乱状況の一端としては両公爵像の名称問題を挙げることができる。ヴァザーリによる1550年版の『ミケランジェロ伝』以来,思索する公爵像は伝統的にくロレンツォ像>と見なされ,今日でもそう呼称されているが,歴史的にはその像は実在したロレンツォの性格や行動とは全く逆の表現がされていて,むしろ今日ジュリアーノと呼ばれている像の方が真のロレンツォ像にふさわしく思われる。そのように指摘したのは最初のミケランジェロ研究者とでもいえるH・グリムであった。しかしミケランジェロ自身の覚え書き(カーサ・ブォナルローティlOA)に,<昼>と<夜>との上に<ジュリアーノ>が置かれる旨が記されていることから無反省に,ヴァザーリが述べたように,思索する公爵像を<ロレンツォ像>と見なしてきた。これに対してワインバーガーは作品の制作順序や当時の書簡から推測して,<夜>と<昼>とのー彫像が<夕>と<曙>との二彫像といれ換ったと考えているし,その意見が妥当だと思える。まさにこの点からも『メディチ家礼拝堂」の完成にはヴァザーリの芸術理念が入りこみ,ミケランジェロの理念の再構築を妨害しているのである。それでも,この礼拝堂の構成法の革新性に関するトルナイの意見は尊重されるべきである。たとえ石棺上の四体の寓意像の位置が変更されたとしても,両公爵像の位置変更が考えられない限り,両公爵像の視線が祭壇側ではなく入口側にある<聖母子像>側をむくこと,そして祭壇もその<聖母子像>の方向に設置されることによって祭壇に向かう聖職者の視線もまた<聖母子像>へとむくという革新的な視線の集中効果は,今後も十分に検討されるべき芸術思想上の問題点である。ナルディーニはその構成法を「評決直前の重罪裁判所の雰囲気」と形容した。たしかにこの礼拝堂にはこれまでやこれ以降の墓碑彫刻と違った重々しい緊迫感がただよっていて,助手たちの手によって完成された二人の守護聖人像の<聖母>をみつめる視線だけが希望を与えているかのようである。ここに審判の場を見たナルディーニは両公爵像の視線を<聖母子像>にむけて図解さえしているが,ワインバーガーはそれすらも疑うのである。-95-

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