鹿島美術研究 年報第2号
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そこで改めてメディチ家礼拝堂に赴き,両公爵像の視線のみならず聖母の視線をも検討してみると,たしかにナルディーニの図解通りにはならない。しかし両公爵像の顔がプロフィールにしろ,左下向きにしろ,祭壇側ではなく<聖母子像>のある入口側にむかっていることは確実である。特に最も遅く制作されたいわゆる<ジュリアーノ像>がプロフィールであることからみても,ミケランジェロは制作の後期になるほどこの視線の方向性を重視した,とみなすべきであろうし,ミケランジェロが助手たちによって完成させた二人の守護聖人の視線も強調されている点から,視線の集中効果が意図されていたことは明らかである。聖母の視線が床を見てしまうのは元来豪華王の墓碑が設置される予定であった入口側のく聖母子像>がもっと高いところにれるという予想のもとに視線が決定されていたからだと推定できるだろう。これらの視線の効果をどのようにしてミケランジェロが獲得し得たのかを確認していくことが今後の課題となるが,その検討材料としては,ミケランジェロの個人的体験と,図像史の二つの面とから考察できると思われる。1527年のローマ略奪に関連して引き起こされたフィレンツェ共和制再興の戦いにおいてミケランジェロは,審判のキリストとマリアとの美しいモザイク画のあるサン・ミニアート・アル・モンテ教会を要塞化の必要性から幾度も訪れ,そして敗戦後には辛くも一命を助けられることで心境の変化を起こしている。その個人的体験に対して,図像学的には最後の審判図との対比によってアプローチできるだろう。「メディチ家礼拝堂」制作を中断してミケランジェロはシスティーナ礼拝堂で「最後の審判」を描くが,そこでは画面上方の諸聖人たちの視線は,画面中央を占める審判のキリスト及びその傍らにいる聖母の方へと集中する。このようにローマにおいて視線の集中化が生じるためには,それ以前に,つまり「メディチ家礼拝堂」制作の後期にその構成法を創造していたと仮定する方がいいであろう。そしてその契機となったのは特異な図像<聖母子像>であった筈である。この図像は,授乳の聖母の型をしている。この型は普通乳房を露わにした聖母とそれにしがみつく幼児キリストの群像として表現されて,ルネサンス期からはその回りに聖人たちを配した画面が流行する。この図像は西欧では中世末にシエナ,アヴィニヨンにおいてシモーネ・マルティーニ周辺で流行し,フィレンツェにおいてはアニョーロ・ガッディの流派において広く制作された。この図像はもともとヨハネ黙示録の女に典拠をもち,アニョーロ・ガッディの流派においては審判のキリスト及び受難具-96-

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