鹿島美術研究 年報第2号
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(1~南薫造の日記,関連書簡の研究(中間報告)研究代表者:広島県立美術館学芸課長岡本隆共同研究者:広島県立美術館学芸員調査研究の目的:南薫造は明治末から大正・昭和にかけて活躍し,近代日本洋画史に輝かしい足跡を残した画家である。このたび生家とアトリエより発見された日記帳・書簡類は南煎造の大切な伝記資料であると同時に,明治末から昭和前半までのわが国の美術状況を知る貴重な資料である。滞欧日記や留学中の書簡類は,日本の青年画家とヨーロッパ美術とのかかわり,及びヨーロッパの美術状況などを知る手がかりとなり,さらに富本憲吉,高村光太郎,有島生馬などからの書簡は明治末から大正期にかけて美術界に大きな影縛を与えた「白樺」とのかかわりを教えてくれる。これらの資料を調査研究して,南照造の全貌とその周辺を明らかにしたい。研究報告:南煮造は明治40年(1907)東京美術学校を卒業し,同年7月24日横浜から博多丸で日本を旅立ちロンドンに留学,約3年間の留学を終え明治43年(1910)4月2日帰朝している。留学中の彼の生活については,「帰朝雑話」(『美術新報』9-11),「北モルトン村にて」(『美術新報』10-5)に紹介されているものの詳しい内容は未だ公にされておらず不明な点が多い。このたび,生家より発見された滞欧日記及び関連書簡によって,彼の留学生活をふり返り,イギリスで師事したボロー・ジョンソンについて,さらに日本人留学生との交遊関係などを明らかにし,南煮造を理解する一助としたい。「滞欧日記」は,一冊のノートに記されている。ノートは,縦23.5センチ,横18センチの大学ノートに類するもので,表紙,裏表紙は厚紙に薄グリーン色の麻布がおおわれている。表題は記されていないが,日記の書き出しに「倫敦の日記」とあり,ロンドンに到着した昭治40年(1907)9月21日田から書き起こされ,明治43年4月2日帰国し,9日郷里の広島県安浦町に着くまでの期間をインク,又は鉛筆で記されている。ノートの総ページは124ページであり,その内,日記の部分は82ページ,ノートの後の部分20ページを住所録,メモ帳として使用し,約150人の氏名,住所が記されている。高木茂登106-

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