南は約3年のヨーロッパ留学期間の内,3分の2をイギリスで過し,終りの1年間はフランスヘ移り,イタリーを旅行し,ミュンヘン,ベルリン,アムステルダムを廻り,さらにアメリカを経由しで帰国した。南が留学先にイギリスを選んだ理由であるが,美校時代の日記に卒業を間近にひかえた明治39年12月,学友と一緒に正木校長,黒田清輝,岩村透を訪ね留学先について相談したことを記している。そこでは,3人からベルギーかフランスがよかろうとめられ,南自身はベルギーに行くことにしようと書き残している。しかし,その後の日記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記していない。留学先の変更理由ははっきりしないが,明治中期から末年にかけて,美術雑誌(「美術新報」「方寸」「みづゑ」など)によってフランス美術とともにイギリス美術が盛んに紹介されており,これら美術雑誌に刺激され,イギリス美術に憧れをもったことは充分に考えられる。また,当時は三宅克己をはじめ丸山晩霞,吉田博,満谷国四郎らが帰朝し,水彩画の全盛時代を迎えていた時であり,水彩画に強い関心を持っていた彼は,水彩画の本場ともいえるイギリスに行ってみようと留学先を変更したと考えることも出来る。明治40年9月21日ロンドンに到着した南は,3日目,日本大使館を訪ね,小村大使,松平書記官等に面会してあいさつを済ませ,その後,2週間程ロビンソンと言う若い画家の案内でプリティッシュミュージアム,ナショナルギャラリー,サウス・ケンジントンミュージアム等の見学についやしている。「朝,ローヤルアカデミーに行き石橋君を待ってサウス・ケンジントンミュージアムへ行く。模写の手続を済ました。大した事も無い。夕方チェルシーのポリテクニックへ行き今夜からライフのクラスヘ入る事とした。校長に遇いまたジョンソン氏に会ひ初めて洋人の教えを受ける事となった。モデルは今,男である。生徒は12■3人も居やうか。ジョンソン氏は親切にこの日記に登場するジョンソン氏が,南煎造が師事したアーネスト・ボロー・ジョンソンである。彼はロンドン大学(BedfordCollege)の美術教授,チェルシーのサウス・ウェスタン学院の美術学部主任教授であるとともに,ロンドン及び,パリの諸サロン,王立アカデミー,王立肖像画家協会など国際的な展覧会に油絵,水彩,パステル等を出品する画家であった。ジョンソンについては,日本ではほとんど知られていないが,このたび彼の南煎造宛書簡が7通発見された。縦15.5cm,横19.5cmの洋紙にインクで書かれ,縦8.3cm,横10.3cmの封筒でリッチモンドから差し出されている。して呉れた。」(明治40年10月14日<月〉)-107-
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