残している。次に「滞欧日記」に登場する南の交遊関係をみると,多くの青年画家たちがヨーロッパに留学しており,当時,わが国の美術界が新しい胎動を始めた時代であったことを教えてくれる。イギリス人との交遊は,ポリテクニックで指導を受けたポロー・ジョンソン以外に,画家ロビンソン,ログレー,彫刻家ゴドウィン等の名前があり,帰国後もギリック,ゲービングなどからの文通が認められるが,特に親密な交際ではなかったようである。南の交遊関係は日本人留学生との間にあり,彼らとの交遊の中に実りある成果があった。ロンドンでは先に留学中であった工学士,大沢三之助の世話になり,パリ,イタリヤ旅行の時も行動を伴にしている。また,ロンドンでは高村光太郎,白瀧幾之助,と交遊し友情を温めている。高村光太郎は帰国後,彼が日本で最初の画廊,浪叶洞を開設した当時,理想と現実の狭間で苦悩する自分の心情を長い手紙に記して南に送っている。白瀧幾之助,富本憲吉とは一緒にウィンザーに写生旅行に出かけ,共同生活を送った仲であった。白瀧は南より10歳上であったが,若い頃の彼の手紙にはきまって南のことを小僧(背が低<童顔であることから),自分のことを入道(頭が坊主のように若禿げであったため)と記入して,渾名で呼び合う親しい仲であった。富本憲吉とは東京美術学校の同期生でもあり,80余通にも及ぶ書簡を南に宛てている。明治42年パリに移ってからは,有島壬生馬,湯浅一郎,山下新太郎,和田三造,柳敬助等と交わっている。「引き続いて有島君の画室へ毎朝行って居る。今朝から6つ程になる男の子を画き初めた。イボンヌは先週の土曜日で終ったのであるが今朝遊びに来た。(略)」(明治42年8月23日,月曜)南は有島壬生馬と一緒にモデルを使って制作し,<小童><春>等の作品を残している。二人の交遊ば帰朝した明治43年7月,日本の近代洋画史上大変意義深い「南煎造,有島壬生馬滞欧記念絵画展」の開催に結実した。なお,この時発行された滞欧記念展目録の南の序文を書いたのは高村光太郎であった。南煎造は,印象派の影聾を受けた西欧のアカデミズムを学んで帰朝した。帰国後の南は,文展で連続5回の受賞を重ねるという華々しい活躍を示し,その清新な画風は日本の洋画壇に新時代の到来を感じさせるものであった。-109
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