ような意味をもっていたのだろうか。これを解く鍵は彼らの作品自体がもっているであろう。従って,まず第一に行なわれなければならないのは,作品との真摯な対話である。第2に,彼らが活躍した18世紀後半の思想界(学芸界)の実態を出来るだけ綿密に把握することである。時代閉塞状況にあったと考えられがちの江戸中期は,実は思想界(学芸界)の一大転換の時期であったらしく,若い鋭意の画人たちに何がしかの影神を与えなかったはずがないからである。研究報告:江戸時代前期画壇の大立物の狩野探幽が,幕府御用を仰せつかって江戸の鍛冶橋に屋敷を与えられたのは元和3年(1617)。次いで,その弟の尚信・安信も幕府奥絵師となって,これ以後の狩野派の流派としての繁栄の基盤がここに確立した。京都に残留した狩野派の画人としては,桃山時代から狩野永徳の大画様式の正統な後継者として活躍した狩野山楽があり,この系譜はその義子たる山雪,そしてその子の永納らによって幕末まで受け継がれて行く。この系列の画人たちを一般に「京狩野」と呼び,一方の探幽を中心として拡がりをみせた狩野派を「江戸狩野」と称した。「江戸狩野」の様式的特徴を簡単にいうなら,要するに探幽の個人様式に還元される。探幽自身は,宋元水墨画,桃山絵画や室町水墨画あるいは伝統的なやまと絵を習学するなかから,自己の画風を形成して行ったのだが,その「古法を学ぶべし」とする教育方針は本来的に正当であったにもかかわらず,いつの間にか古法遵守それ自体が目的となり,挙句には,「探幽様」それ自体もが遵守されるべき「古法」と化したのである。しかし,これについては狩野派なりの理論的根拠があった。探幽の弟・安信の画論『画道要訳』は次のようにいう。「画に質有り,学有り。質と云うは,生まれ付きて器用なる天性の質有り。学と云うは,習学びて其道を勤めて其術を得たるをいゑり。(中略)我家の云伝えは,天質の器用を以て書出すの妙は妙なりといへり,さはいへど是を貴ばず。いかむとなれば,後世の法と成りがたし。これを学んで至るはくるしみて云ふれども,万代不易の道備て子孫是を受て失なはず。書伝へ云伝へて後世に其道を残す。是によって,画は法を始めとして妙極を次とす」。ここでいわれていることは,絵画には学画(学んで習得した絵画)と質画(天賦の-117-
元のページ ../index.html#135