才能を発揮した絵画)の2種があって,わが狩野家では学画を第一とし,質画の上位に置く。それは,学画の場合は後世にまで伝えて行くことができるが,質画はその画人一代限りのものであって持続力をもたない,と考えるからである。質画とは「絵画における個性的表現」と換言することができるだろう。狩野派はこの個性的表現を第2義的なものとするのである。しかし,ここで注意しなければならないのは,第2次大戦後の自由主義的風潮のなかで,その粉本主義的絵画教育のあり方ゆえに罵倒さえ受けてきた狩野派であるが,実際には,天賦の才能にまかせた絵画の存在を明確に認識し評価した上で,それでもなお狩野家は学画の方をとると鮮明に主張している点である。後世の“風潮”でこれを裁断するのはたやすい。しかし,狩野派のこの選択によって江戸時代の絵画教育が推進され,ひいては一般人の絵画鑑賞能力すらも飛躍的に伸びたのである。江戸時代における画人と受容者の増大現象の根幹を作ったのは,正に狩野派のこの選択によるところが大きかった。しばしば単純な視点で狩野派の粉本主義を批判する論がいまだに横行しているのを見るにつけても,け加えておく必要を感じる。とはいえ学画専ーの地平からは個性的表現の発芽を望むことができない。狩野派ヒエラルキイに対する疑念は早く,文人画家の柳沢洪園によって打ち出された。それは洪園12,3歳の時の事だったともいうが,彼は狩野家の絵は要するに「皮膚」に過ぎない,絵画の真の「骨髄」を得た者はいないといい切り,粉本に拘泥する余りに個我をおろそかにしがちの習学法に異を唱えた。写生派の円山応挙も始めは狩野派に付いたが,それを批判する形で自己の画風を切り拓いて行った。さらに近時“異端派”“奇想派”の呼称でその声価がとみに高まっている伊藤若沖も,始めは狩野派で学んでいたのだが,『若沖居士寿蔵囮銘』によれば,「是の法たるや狩野氏の法なり。すなわち吾れ能<藍より出ることあるも,また狩野氏の圏績を超えず」と決然と悟って,自己の画業を宋元画を直接模写したり実際に動物を観察したりするところから改めて開始したのであった。これらは狩野家支配体制に対する「異議申し立て」と位置づけられよう。反粉本主義すなわち当時においては反狩野になるこの態度である限り,単なる一つの姿勢に過ぎないだろう。実際の作品がその姿勢の強固さを証す手だてとならなければなるまい。曽我爾白の狂激極まる<群仙図>屏風,若沖の<群鶏図>,襖(大阪・西福寺),<動植採絵>30幅(宮内庁),<竹図>襖(京都・鹿苑寺),そして長沢芦雪の-118
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