vヽ゜事実,江戸の山本北山による,個我の発露こそ詩の本道だとする主張は,さくししこうけんえん<海浜奇勝図>屏風(米国メトロポリタン美術館)等が我々を誘う妖かしの世界は,汎狩野家の立場からは決して誕生しない性格のものである。これらの作品を一貫して流れているのは,個性的表現に対するほとんど妄執に近い志向に外ならぬ。この頃,個性的表現への傾斜を示したのは,独り絵画だけではなかった。江戸の山本北山は『作詩志殻』においてかくいう。「凡ソ詩ハ趣ノ深ウシテ辞ノ清新ナランコトヲ要セヨ。副窃ノ幣ヲ免レンコトヲ欲この文章は漢詩について言及したものであるが,絵画の場合にき換えても,そのまま当てはまる。ことにその圏点部は,粉本墨守に明け暮れる狩野派的習学法に飽き足りないものを覚えていた気鋭の画人たちにとっては,恐らく「人ノ絵ヲ剰襲シテ巧ナランヨリハ,吾ガ絵ヲ吐キ出シテ拙キガ優レル」というように聞こえたにちがいなに発する説園古文辞派の唐詩第一主義の詩風に対する批判なのであったが,反祖棟学・反古文辞の火の手があがったのは,京坂ことに京都がその中心なのであった。そして反祖棟学の急先鋒は京の儒者である芥川丹邸や服部蒜門らであるが,彼らは本来祖棟学徒だったのである。反祖裸学が謗園の洗礼を一度は浴した人々によって展開されたのは皮肉といえるが,考えようによればそれだからこそ真剣な駁論をもって対抗し得たともいえよう。応挙や若沖が粉本の弊害を知り,のも,逆にいえば狩野派の習学を体験した故といえるだろう。芥川丹邸や服部蒜門らが拠ったのは,あった。蘇門の『李斯断案』が,く依拠していることは,既に指摘がある。先述の北山の『作詩志殻』自体,中国明末の反古文辞派の首魁.哀宏道の性霊説に学んだものである。京坂儒者たちによる陽明学左派のしい文学の発生をうながしたことについては,近世文学研究者のあいだに深い考察が備わる。絵画の分野においても,文学の場合と似たようなことが起きたのではないか,というのが筆者の仮説であり,もし仮説が当っているとすれば,何ゆえに,京都を中心としていわゆる“異端派”の画人たちが生まれたのか,それも18世紀半ば以降に至当時流入して来た中国の陽明学左派の立論で『童心説』や陳白沙の『道学伝序』に大きに依拠した反祖棟学,反古文辞の流行が,新萩生祖棟もともと自己の面風を希求した• .たくみスルコト,勉メテ文章ノ陳言(陳腐な言葉)ヲ去ルガ如クセヨ。人ノ詩ヲ剰襲シテ巧........................... ナランヨリハ,吾ガ詩ヲ吐キ出シテ拙キガ優レルト心得ベシ。」(圏点引用者)• • • • • • -119-
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