鹿島美術研究 年報第2号
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って輩出したのか,ということに対しての解答が得られるように思うのである。例えば曽我爾白について,『近世逸人画史』に「世人狂人を以て目した」というが,これは癖白にとっては却って望むところであったかも知れない。既述のごとく,爾白活躍時の京都の学芸界にあっては,陽明学左派の論が横行していた。陽明学左派においてとりわけて用いられるのは「狂」ないし「狂者」の語である。『論語』あるいは『孟子』に「狂」「狂者」の語が出ているように,「狂」とは,進取の気象にすぐれ,聖人に直結せんとして往々にして世俗を逸脱することをいっており,「狂者」とはそういう人をさしている。孔子の場合は「狂者」を中道の士の次位に置いたが,陽明学左派の王竜淫などは「狂」こそ最高の境地であると説いた。ここに至れば,「狂」なる精神が反祖棟・反古文辞の立場の根幹をなすものであったことは,容易に理解できるだろう。『近世名家書画壇』や『三重県史談会々誌第2巻第1号』などが伝えている爾白の奇行の数々,あるいはまた,時にみずからを「鬼伸斎」と称したことなど,これらもいわば自分を「狂者」として演出する方法であったかと考えられる。ところで,時代はややさかのぼって17世紀後半になるが,貞門流の「古歌」にひきずられる作風を拒否して新しい俳諧表現に回執した井原西鶴は,貞門側の俳諧師から,「異風」「放埓」「邪流」「邪道」「傍若無人」「異様」「あぶれもの」「外道」「下劣」と散々にののしられるが,これらが癖白に対しての「画体いやし」「邪道に陥った者」「怪醜」といった評言とはなはだ似通っていることは興味ぶかい。では,そういった批難に対して西鶴はどう答えたものだったろう。彼は,「朝に夕に聞くうたは耳の底にかびはえて口に苔を生じ」と発展性のない貞門の句風を否定し,そしてそれらの罵倒を「そしらば誹れ,わんざくれ(勝手にしやがれ),雀の千こえ鶴の一声」(以上『生玉万句』)と一蹴し,返す刀で,“我らが俳諧は,自由にもとづく俳諧”(『大矢数』)だと規定した。古歌の製肘をまった<問題にしない西鶴のこの一声こそ,京都“異端派”絵画の表現的特質を示唆するものである。すなわち,“異端派”の絵画は,「異風」で「異様」で「外道」の絵画と批判したければするがよい。彼らの「質画」は,正に,“自由にもとづく絵画”にほかならないのである。-120-

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