(ハ)職業画家であった大雅の旅絵師としての側面ー一等が指摘され得る。それらは各々動機の一部であったに違いない。しかし,その結果として遺された具体的な真景図の作品群は,大雅の画家としての日本風景との感動的な出会いを何よりも雄弁に物語っている。当初の動機が何であれ,旅と登山は大雅に大きな喜びと満足をもたらし,更に次の旅へと大雅を駆り立てたことだけは間違いない。大雅は日本各地の実際の風景をその眼で確かめたかったし,実際に自分で山に登ってみたかったのである。言うまでもなく,当時の画家のすべてがそうであったわけでは決してない。(2)では,大雅は具体的に何処に旅発ち,どの山に登り,いかなる景観を描いたのであろうか。大雅が出かけ,真景図に取り挙げた風景は,決してどこでもよいのではなく,そのほとんどは所謂名所(名勝)名山に限られていた。このことは大雅の図」ひいては近世以前の「真景図」を考えるに当って,極めて重要な点であると思われる。名所名山の概念は,基本的には長い伝統をもっている和歌の歌枕に由来し,大雅の場合も例外ではなかったが,ただ注目すべきものとして,大雅30代の作品<京都名勝六景図>がある。この作品は祇園南海の五言古詩「平安六景」六首に基づいて描かれたもので,現在も各幅に南海の書幅が添えられている。この南海の例に限らず,江戸時代の漢詩の中には,名所(名勝)名山を詠んだものが少なからず見出される。大雅がしばしば描いた富士山はもちろんのこと,箕面の瀧(<箕山瀑布図>),浅間山(<浅間山真景図>)なども多くの漢詩の好詩題となっているし,また中国の灌湘八景にならって,日本でも全国各地で,等が盛んに漢詩に詠われており,それらの詩を集めた『扶桑名勝詩集』(延宝8年<1680〉刊)などもある。従って,古くより名所名山として確定している場所であるとしても,江戸時代にそれが更に漢詩に取り挙げられて名所概念が再編成された場合のことも,考慮に入れる必要がありそうである。さて,いずれにしても大雅個人が新しい風景を“発見”することはあまりなかったようである。大雅は名所名山の概念にまだこだわっている。ただ,実際に旅に出,旅の途中で着実に出会いの準備がなされ,目的地(名所)に到着した時,風景との劇的な出会いがなされたものと推察される。この点が,近代の画家が,別段名所でなくと-122-・十景・十二景
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