みな画面構成と,高度に洗練された画技の冴えが見どころの作品と言えよう。それに,この十二景のすべての場所を大雅が訪れたという確証もない。(なお,十二景の背後には,先ほど述べたように漢詩があったのかも知れない)40代以降,日本の風景,及び画としての山水のイメージが豊富になり,画技も充分円熟した段階では,大雅は実際の景を見なくとも,日本の風景をそれなりに作ることも出来たであろう。実見したことのない場所については,先行する作品や名所図の類を参照したのではないかと想像されるが,ただ名所名山図会の刊行が活発になるのはもう少し後のことであり,今回の調査の範囲では,大雅が参照したと断定し得る図会類は見出されなかった。いずれにしても,40代以降の真景図は,大雅様式の中に異和感なく含まれるものとして把握することが出来ると思われるが,反対に,<洞庭赤壁図巻>の場合のように,画題が中国の風景であるのに,制作に当って大雅はしばしば琵琶湖に行って水波の様を観察した(桑山玉洲『絵事郡言』)と伝えられているものもあって,興味深い。このことからしても,どうも大雅にとっては,単に日本の実景を写実的に描くこと自体に意味があったのではなく,日本であれ中国であれ,「真」の景を描くのが窮極の目標であったのではないか(その辺の事情に関しては周知の如く『絵事郡言』に詳しいが,同書には大雅の抱いていた芸術観が反映している可能性が従来より指摘されている)というのが今回の調査研究の段階での見通しである。て,近代的風景画への可能性を多分に有していたのに対して,大雅芸術の円熟期であうが,ただ,若年よりの度重なる旅と登山,真景図制作による積極的な造形探求の経験は,充分消化された形で,40代以降の大雅の諸作に大雅独自のものの捕え方,そして奥深い絵画空間として現われて来るのであった。以上,問題点のみを略記したが,初めに述べた通り,「真景図」の問題は大雅芸術の本質にかかわって来るため,考究すべき問題点はあまりに多い。今後,今回の調査研究を基として,なお不充分であった点に関して研究を続行し,後日その成果をとりまとめたい。る40代以降にその可能性がむしろ減退している理由もそのあたりに見出されるであろ2, 30代の真景図が,実際の自然景から多くのものを学び取り,斬新な感覚を示し-124_
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