16日70オで没したが,その遺骨は尾張に送られ,翌20年妙亀山相応寺を建立して菩提物描写にも相通ずることである。(相応寺屏図部分④)次に人物表現を見てみよう。例えば楼閣の縁側・緞通の上に立ち後方をふりかえる姿態に描かれた女性(写真④参照)。下げ髪の身体にまといつ〈様子,同様に身体にまといつくような曲線を多用した独特な衣文線,(特に衿合わせに注目されたい)。これらは甲図に極めて似通い,共通する感覚が指摘できよう。ぷっ〈りとした手の甲と小さな指先(もとよりこれらは又兵衛風と呼ばれる類型表現ではあるが)。豊頬で独特な笑みを浮かぺる顔貌。<相応寺屏風>に描かれた女性像の全てに,甲図との共通表現が認められる。更に注目すべきは,衣文線や毛筋に使用されている描線の酷似であろう。きっちりと丁寧な斥形の打ちこみ,運籠の転折法。これらの他にも近似点を挙げることは容易だ。肘の部位の衣紋線,座像での裾の描写,裏地の赤色,金の〈くり等々。<相応寺屏風>の人々の衣裳に白地が多いことも特徴的であるが,ここにもアクセントとなる襄地の赤と:::の沈んだグリーンとが織りなす全体的な色彩の統一感が認められ,甲図に共通する色彩感覚と言えよう。また文様レベルでは,甲図腰巻の湧雲文様が<相応寺屏風>でも使用されていることが挙げられる。更に興味深いことは,この湧雲文様が,同じ〈徳JI[黎明会所蔵のく本多平八郎・千姫像>と呼ばれる屏風中にも認められることである。この特異な文様,湧雲文様を常盤源二光長に於ける藻勝見文と同様に考えることが許されるならば,<甲図><相応寺屏風><本多平八郎・千姫図屏風>の三者は,寛永期という同時代性で語られるのみならず,同ースクール内の作品群と規定することもできよう。<相応寺屏風><本多平八郎・千姫図屏風>を精査することで,甲図との近似もより増大するものと確信する次第である。ところでく相応寺屏風>は,尾張徳川家のネ且,義直の生母・相応院遺愛の品と伝え,もと名古屋の相応寺に所蔵されていたので,この名称がある。相応院は俗称をお亀の方といい,石清水八幡宮の社人志水甲斐守宗清の次女である。一度竹腰家に嫁して一子をもうけたが,のち家康の側室となり仙千代(早逝),五郎太(義直)の二児を産んだ。『徳川実紀Jに拠れば,元和九年には尼となっており,江戸の尾張藩邸に起居して,秀忠や家光臨駕の際には,義直と共に饗応の座に連なり歓待している。党永19年9月を弔われた。この相応院遺愛の品と伝えるものに,先述のく本多乎八郎・千姫図屏風>も挙げられていることは,はなはだ興味深い。<本多・・・屏風>は,一種の文使い図であるが,-131-
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