文をとりかわす下げ髪の女性の小袖に三ツ葉葵の文様があることから,当時喧伝されたロマンスの主人公千姫に擬す伝称が生れたと言われている。制作期も<相応寺屏風>と同じ寛永期と目され,更にその筆法の酷似も指摘され,相応院をめぐるこれら二つの屏風は,風俗画史上注目すべき作品と言われてきた。しかしこれら二つの屏風に対する実証的研究は,その知名度に比して意外な程,進展していない。現時点での我々の推論では,この二つの屏風は確かに酷似した筆法・造形感覚を備えているか,しかし両者に共通する粘着質のエネルギーが画面に通底音のように流れ,独特の世界を形成していることは否定し得ず,何らかの非常に近い関係にあった画家達と推定される。そして今我々が問題とする大和文華館所蔵の女性像(甲図),これを相応院をめぐる第三の画の位置に置くことは可能であろうか。その帰結として,甲図の肖像主を相応院にアトリビュートすることの可否は如何なのであろうか。相応院の肖像画として有名なのは,京都市清涼庵に伝来する作品で,これは正保2年の作である。その作風は,先述の二屏風や甲図とは明らかに異質で,右手に数珠をかける像容も追慕像の基本形を踏襲し,寺院の開基に関連する尊像としての意味がこめられて制作されていることは一目瞭然である。但し,この図が何故清涼庵に伝来したのであるかは,今後の調査を侯たねばなるまい。当の相応寺には,相応院画像の由と称する文書が寺宝として遺されているのみで,画像は伝来していない。(或いは今後の調査で当該作品が発見される可能性も残されてはいるが)問題の女性像(甲図)は,岐阜から出て古美術商の手を経,大和文華館に収蔵された経緯を持つ。本来単独の画像であったのか,あるいは夫妻像の片割れであるのか,この点も考察すべき余地がある。加えて,現在の表装の裂(中廻し)が徳川葵の文様であることも看過できない。これが当初のものであるという確証はないが,仮に後世の表装変えの結果であるとしても,中廻しに徳川葵文を使用する理由となった,何らかの伝称を伴っていたと想定することは可能である。この女性像(甲図)を相応院(お亀の方)像と擬定することは,我々にとり魅力的な推論ではあるが,現段階では,あくまでも楽しい推理に留めておくことがふさわしいだろう。むしろ,相応院遺愛の二つの屏風との関連性,特に画家の問題に就いて考察を深めることが先決であった。60年度に予定している<相応寺屏風>と<本多平八と認定するには至らない。-133
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