(1り京派絵画の調査研究(継続)郎・千姫図屏風>の精査によって,この問題をより確定的に論ずることが可能となるであろうが,およその見通しとして,三者は同ースクール(又兵衛風の類型表現から見て,町絵師系統の,尾張藩出入工房)であり,就中,<相応寺屏風>と甲図は,同ー作家の可能性が極めて高いと考えている。我々は15・6世紀の女性像というテーマを掲げるにあたり,幾つかの問題を抱えていた。その一つとして女性表現の系譜上に表われる,女性肖像画と風俗画との積極的な関わりを解明する希望を持っていた。女性肖像画成立の前史に遊楽図等の群像風俗画があり,また衰退していった後史に美人風俗画があること,即ち,女性肖像画の成立展開が風俗画の展開消長に支えられていることは,女性の肖像表現を大きく規定していると考えてしかるべきであろう。甲図よりも作期の早い,所謂武将夫人像ですら,個性的,リアリスティックな表現を有しているとは言い難いのである。新出の甲図は,この問題を考える上での道標となったのである。個性表現を前提とするであろう筈の女性肖像画が,遊楽図や文使い図といった風俗画中の名もなきー女性に還元されていく,その境界に位置するのがこの甲図であると考えられるのだ。そしてこの境界が,画中人物を例えば相応院(<相応寺屏風>中邸内二階の老女)と看倣したり,千姫(<本多…屏風>中,文をかわす女性)と考えたりする,鑑貨体験の場を拡大してゆくのであろう。個と普遍との交錯の境界線がまさしく明確に引かれ始めたのが,寛永期以後の肖像表現であって,それはまた,幕藩体制が形を整え始めた寛永期という時代性を抜きにしては語ることができない。肖像画の歴史は,神格化と血肉のある生身の人間化との間を揺れ動く振子であり,個と普遍の二つの極に引きつ戻りつした軌跡であるのだ。研究者:京都大学文学部助教授佐々木丞平調査研究目的:円山派の祖である応挙や,四条派の祖である呉春については既に多くの研究者によって研究がなされてきたが,応挙や呉春によって完成された様式がその後を受けて実際にどのような展開を示し,どのような形で近代絵画へと引きつがれていったのか,その展開の経緯の実態については,ほとんど明らかにされていない。その最も大きな原因は,応挙以降の円山派,呉春以降の四条派の多数の画家達の存在は知られながら-134-
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