鹿島美術研究 年報第2号
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物など,18世紀に入って普及し始めた新しい科学的知識で,応挙の絵画制作活動に大きな影縛を与えたと思われるあらゆる種類の資料にまで調査研究の領域を広げてみた訳である。このように,京派絵画の研究に必要と思われるあらゆる領域の資料に研究の手を広げることは非常に時間を要することであるが,それにもまして,大変経費のかかる仕事でもある。このたび鹿島美術財団から資金の全面的な援助を受け,目下のところ,できた。調査を実施した中には,洛東遺芳館180点,逸翁美術館231点,植松家315点というように,多数の作品が一括して所蔵されているところもある。又,研究の上では非常に重要と思われる下絵類が,植松家には約150点,円山家においては4,000点近くも残されており,これらの調査と研究は今後も続けて行かなければならない重要な課題である。さて,こうした基礎資料を整備して行く傍ら,機会あるごとに研究の成果を発表することを心掛けてきた。まず,京派(円山四条派)発生の時代背景,つまり応挙とその時代背景との関係に目を向けた時,応挙の絵画の革新性が意外にその時代の新しい学問と密接に関係しているのではないか,と考えるようになった訳である。こうしたところから,はっきりと浮かび上がってくるのは,解剖学や相学と人物画,博物学と花鳥画や動物画,測量学と遠近法に係わる山水画,というように,いずれも応挙の時代,即ち,18世紀の半ばから後半にかけてのこうした学問と芸術との関係を徹底的に追ってみる必要があると思われたので,まずその手始めに,18世紀における解剖学や相学がどのような状況にあったのか,その事情を可能な限り詳細に追ってみた訳である。そして,その成果は,昭和58年9月に日本で開催された国際アジア,北アフリカ人文科学会議で発表した。しかし,この段階では未だ資料も不十分であったが,その後の調査でかなりの資料を補強することができたので,応挙とその弟子達の時代における解剖学及び相学と絵画との係わりについて,「江戸時代の外科書及び相と人体表現の関係」と題して『哲学研究』550号(京都哲学会編)に発表した。さて,次に,18世紀半ばから後半にかけてのこの新しい学問,解剖学や相学が,応挙の人物画制作の上でどのように影騨を与えて行くのか,又,当時流行を見た新しい学問を応挙がどのように理解し,どのような形で自分の絵画制作の中に生かし,新し約1,100点の調査を進め,約4,500枚の写真,及びほぼ同数のスライドを整えることが18世紀の半ばに日本で流行のピークを迎えた学問と,絵画表現との関係である。136-

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