鹿島美術研究 年報第2号
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年10月東京大学で開催された「美学会全国大会」,及び同年11月アメリカ・ニューオリいタイプの人物画を創作しようとしたのか,この問題をとり上げ,その成果を昭和58ンズで開催された「江戸絵画に関するシンポジウム」で発表した。これらの発表をもとに,その後の資料収集から得られた新しい成果を加えて修正したものが「円山応挙の人物図について」(『研究紀要』1985年,京都大学美学美術史学研究室編)である。この人物図というものを例にとって,応挙以前,応挙,応挙以後,とその展開の跡をたどると,応挙以前の人物図においては,人物の形をとることが,即ち人物の表面をなぞることであった。従って出来上った人物図は画面にへばりついた,扁平な人物表現を免がれ得なかったのである。これに対し,応挙は写生派の画家であっただけに,人物の表面の形を写し取るだけでなく,物の構造をふまえた上で描くという,他の画家達とは全く異なる方法で描いたのである。人物図であれば人体の構造を踏まえた上で描く訳であるか,応挙が一方で解剖に興味を示したのは,この人体の構造を知るためであったと思われる。しかし,応挙は人物図において,人間の性格の典型を表現に求めようとした。高貴なる人間,俗悪なる人間などなど,その人間の性格の典型を描き分けようとして,相書を最大限に活用したのである。こうして,応挙は人物図において,人体の基本構造を解剖学から,顔の表情をから学びつつ,以前の画家達の作品に見られるような画面にへばりついた平面的人物図から,一つの空間の中に,人体としての骨格と構造を踏まえ,しかも人間の属性を描き分けた人体を描けるようになったのである。それでは次に,こうした応挙の空間理論や解剖書,相書の知識等が弟子達にどのように伝わったのか,あるいは伝わらなかったのか,その辺の事を見ておく必要がある。応挙には,おびただしい数の下図があり,これを,片面に木炭をこすりつけた念紙をはさんでトレースし,そのトレースされた木炭の線をなぞって本画の輪郭線を入れるという方法を取っている。このたびの調査でもこの下図や念紙が出てきた。応挙が作品を描く時にしっかりとした下図を必要とするのは,琳派や狩野派等に比べ,絵の具がずっと薄塗りであり,線を生かした作品であるということがあげられる。こうした薄塗りの線を主体とした作品は,それだけにごまかしがきかず,作者の力量がもろに出てくることになるが,その為,弟子は師応挙の下図を使って描くということが数多く見られる。しかし,師応挙の下図を用いても,立体の解釈が不十分である為,線の持つ意味が違ってしまったり,違う絵の具や筆を用いることにより,作品のイメー-137_

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