割は大きいが,このための文献史料として黄業語録の存在意義もまた大きい。多量に遺存する黄槃語録を中心に広く黄槃文献より美術史関係の史料を調査し,その集成を目的とする。研究報黄槃語録とは,黄槃禅僧の語録のことをいう。黄漿禅は十七世紀半ば,中国明末清初の禅僧隠元隆埼の渡来を契機として,隠元を開山に黄槃山萬福寺が創建され,これを本山として臨済宗黄槃派と称し開立された新興教団である。宗祖となった隠元は日本臨済と同じ流れをくむ南岳下楊岐派の,華南における著名な禅匠で,弟子と共に大挙して渡来し,なお法子法孫が続々と渡来して教団の中核となり,法式の上でも中国禅院の様相を濃厚に移植し維持することによりその特色を示した。自ら臨済正宗を標榜し,当初から黄槃宗を称することもあったが,正式に臨済宗から独立して黄漿宗を称するのは明治9年からである。黄架禅には,臨済宗を主とする多くの日本僧が会下に集まり,開宗から約半世紀の間に正式の嗣法者だけでも1,200余を数え,ほぼ日本全国にわたり1,000に近い寺院が転派開創されるという急速な発展をみた。この背景には伝統的な日本仏教と中国仏教との係りと中国文化への憧憬がある。特に当代儒学の興隆を中心に漢学と中国趣味の盛行と相侯って,多くの僧侶のみならず文化的指向を高めてきた大名以下士庶,文化人層を帰依者としている。隠元以下渡来僧も文人的教養豊かな僧侶が多く,異国への布教だけに宗教的情熱をもってこれに応えたのであろう。黄槃の開立は当代仏教の沈滞に清新の気を吹き込んだばかりでなく,明清文化を主とする中国文化の摂取の上に,大きな役割を果すこととなるのである。この新興教団である黄柴禅の隆盛を示すと共に,その役割を果したものに隠元以下黄槃僧の語録類の編集板行が考えられる。禅語録は,宋代以来禅林の貴族化文人化が進むなかで文学的傾向を強めるが,その影縛のもとに日本禅林文学として成立したものが五山文学であるが,当時衰退の途にあった。隠元ほか渡来僧は詩文をよくし,すでに語録等の著作を有するものもあった。当初隠元語録の覆刻にはじまるが,ついで隠元以下渡来僧の語録や詩文集が板行されると共に,会下に入った日本僧もこれに倣い陸続と上梓をみることとなる。ここに五山文学の伝統は新たな展開をみせて,黄槃文学ともいえる盛行を現出することとなるのである。黄槃僧は文人的であるだけにその著作は文芸的色彩が濃厚である。自ら書画をよく-139
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