鹿島美術研究 年報第2号
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みられ,この集の成立からみると詩作年次は,寛文8年(1668年)と思われ,この年隠元77歳の祝寿に本図を贈られ,陸治の詩に次韻したものである。中国文人の間で祝に際し松図を贈る風があったが,これが我が国における最初の例と思われる。その後黄槃僧の間に行われ,日本文人社会にもその風がみられるようになるのである。この陸治の詩と隠元の次韻は次のようである。当君春日開華宴手縛蒼龍到席前衆子西池問王母桑田‘}倉海定何年辛未孟夏陸治題祝とあり,これに対し次包山隆居士祝寿韻見説高堂開盛宴龍翻鳳舞戯尊前卿花献果重重逸永祝荘椿ー大年又次包山陸居士題松韻日常自足憬開宴林著性香到几前松老如龍醒眼夢頓忘人世登知年というもので,ここに隠元の文人的性格をみることができるのであろう。ついで自賛であるが,自賛とは自己の頂相(黄槃肖像)に対する賛である。禅宗では嗣書と共に頂相を嗣法者に与えたが,やがて僧俗の弟子が多く師僧の肖像を画工に描かせ,また自ら描いて賛を求めるようになる。明末にはその数が増えたもののようで,隠元の祖翁密雲円悟は41首,師の費隠通容は40首の自賛がその語録中にみられる。渡来僧で隠木仰と併称される黄槃草創期の中核僧についてみると,隠元は渡来前に13首,渡来後128首で計141首がある。法嗣の木庵性稲は90首,同じく仰非如ーは140首を数える。渡来僧の中にも2.3首と少い僧侶はあるが一般に多量で,この数の多さは頂相の概念を超えるものと思われる。なお隠元・木庵・仰非像は法子法孫による題賛もあるので一層その数は多い。隠木仰は黄槃祖師の雄であるので特別多いが,初期黄槃の諸僧は唐・和僧共黄槃語録はまた黄槃僧の書跡や画賛の釈文のための資料としても重要である。勿論作品は遺存していても語録に収録されていない場合,また両者に字句の異同がある場合等があるが,草体で判読困難な場合や語録によっては返り点・送り仮名が付されている場合があるので非常に便宜である。ここにその一例をあげておきたい。,ここに所謂黄槃画像の特色をみることができる。-141

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