定和録をはじめ数多くのファイルが存在し,企画倒れになった展覧会や重要文化財や国宝の全国調査などについても明確になった。全体をふり返ってみて,本当に実りの多い旅行ができたと思う。ワシントン,メリーランド,ノーフォークとそれぞれの場所で,異った観点から占領美術政策というつのテーマをめぐる原資料の閲覧,また,意見交換ができてよかった。しかし,今まで未発見の原資料にめぐり会えたのは幸運と感謝しても,それだけに頼ることなく,それを出発点として考察を重ねてゆきたいと思う。この派遣によって発表した著書,論文及び報告書名・講演題目:研究論文:1戦争と美術I海藤私の博士論文「日本戦後美術の社会的背景1945年ー1958年」の第1章と第2章は,それぞれ,「1.G. H. Q」,「2.美術の民主化」を取りあげており,今回はその2つの章のための原資料収集に米国にわたった。この研究旅行の結果の一部を今年の5月という題で発表した。「美術と戦争」を考える時,私達はすぐに戦争画を思う。第二次世界大戦中に描かれた戦争画は,戦争終了後,美術家の戦争責任と節操を問う1つの道具として使われ,論争のもととなった。また,それらの絵がGHQの手により米国へ持ち去られた事実が達の戦争責任追究問題に始まったとしたら,GHQの占領文化政策は戦争画の米国への移動により終了したと言ってもよい。今回の調査の目的は,米国から見た日本の戦争画とその役割を解明する事にあった。太平洋戦争画に関する現存の美術史は,まず1945年10月14日,朝日新聞に掲載された宮田重雄の投書がひきおこした論争に始まるとされる。それは,戦争画を描いた画家達が戦後なにくわぬ顔をして活動を再開しているのを好ましくないと感じた宮田と,in Japan 1945-51"というタイトルで,研究発表予定D.Phil論文“Patronageof Art in Japan 1945-1958" ch 2 Part/,(aXb) の中で,主にこの派遣によって研究した内容を発表する予定1985年5月オックスフォード大学日本研究所にて“G.H. Q" Art Adiministration 1986年29日に,オックスフォード大学アシュモリアン美術館でのセミナーで「美術と戦争」1960年代になり一部で報道され,返還運動が起きたりもした。日本の戦後美術が画家-172-
元のページ ../index.html#201