鹿島美術研究 年報第2号
202/220

1946年2月26日,ヒュー・ケィシイ陸軍少将によって書かれた記録には,すでに幾つGHQの車でどこかに連れ去られ,事情聴取を受けたと伝えられる藤田嗣治であったとそれに反論する画家達との間で始まった。日本美術会結成(1946年4月)や美術界の民主化の動きとともにこの戦争責任問題は,次第に藤田嗣治を筆頭とする数人の「戦争美術家」に焦点を合わせてゆき,1949年3月,藤田の亡命ともいえる渡欧により一応終結したとされる。また戦争画自体は,1951年7月にGHQにより収納されていた東京都美術館より運び去られ,1967年に写真家の中川市郎がアメリカで発見するまでは所在が知れなかった。中川氏の撮影したそれらの絵の写真展が東京で開かれるまではそのような絵がアメリカにあった事すら知られていない状況であった。1970年,米国政府はそれら153点を永久貸与という形で日本に返還,それらの作品は東京国立近代美術館に収納され現在に至っている。米国におけるこの戦争画関係の記録は,他のGHQの日本占領中の公文書や記録と共に,まとまってワシントン郊外,スートランド公文に保管されている。公文書の他,数々のメモランダム,レポート,手紙,係員のファイルなどにわたり広く残されており,今回のような研究には欠かせない貴重な資料である。戦争画は初め,GHQの中でも機械部隊(エンジニアセクション)の管轄であった。かの興味深い点が見えている。①まず,ワシントントロポリタン博物館で開催される展覧会出品のため米国本土に送る事という要請がなされている。11月21日のそれに対する返事には,これらの絵は日本のFUJITAという者の指揮により描かれたものであること,また,展覧会は国立ミリタリー博物館で開催されるものである事などが記されている。FUJITAという人物は,GHQの訪問を受け,機械部隊より戦争画の収集などに関する情報提供の正式依頼を受け,その任務のためにGHQに雇われる事になった。もし,このFUJITAが日本の美術界の中で戦争画について大変詳しい者としてGHQに接近されたとしたら,この人物は戦後間もなく考えられぬこともない。②米本国軍事局は,GHQより戦争画百点余を集めるには2ヵ月程かかり,それでは展覧会にまにあわぬ事,集め次第1946年1月頃を予定してワシントンに送り調査を依頼するという内容のアドバイスを受けている。マッカーサー自身がこれらの戦争画の存在を知らされたのは1946年2月と記されている。より,1945年11月8日に,日本の戦争画を集めて,メ-173-

元のページ  ../index.html#202

このブックを見る