果GHQは法律的な問題がある事を認識した。その中でも,戦争画をどのような名目で③マッカーサーの指揮下,戦争画を日本から運び出すための調査が行われ,その結米国に持ち帰るかという事は大きな問題点となった。賠償の一部とすれば他の連合国もその権利を主張する可能性がでてくる。戦利品とすると軍部の所有であった作品しか国外持ち出しできない。なぜなら「敗戦国軍部の所有物である物のみを対象とし,個人所有物は買い上げる事も,その他の方法で譲り受ける事もならない」という指令がでていたからである。④事実,最終的に集められた戦争画は153枚にすぎなかった。それは,陸軍,海軍などの軍関係の機関が所有していた物のみを対象として,個人蔵の物には手をつけるができなかったからであろう。結局,「戦争画は戦利品として扱う。それらはプロパガンダとしての価値しか持たず,美術品としての価値はないとみなす。」⑤上記の名目のもとに米国の所有物となった。「ドイツの戦争画も同じ名目により連合国の所有となったのだから」という一文が記録の中にみつかるのも興味深い。⑥日本の戦争画はかくして米軍の所有物となった。しかし,連合国の他の国々はこの特殊な戦利品に興味を示さなかったのだろうか。実は,再度にわたり,数国からGHQに譲渡の要請があった事実が判明している。例えば1946年にはオーストラリア軍の連絡将校より,オーストラリアと関連のある題材を扱ったものを,また1947年10月にはオランダ軍の派遣団がジャワでの日本軍中佐とジャワ総督との会見の記録画を欲しいという要請があった。さらに英国からも同様の申し入れがあった。⑦しかし,この様な要請に対してGHQは,あくまでも「これらの絵の処分は未定であり,現在動かす事はできない」という返事を送り続ける。⑧一見融通のきかない,その場しのぎの返事に見えるが,その背後には占領下の日本が置かれた特殊な状況が関係している。例えば1946年12月31日付のGHQ民間情報教育局よりC.I. E GHQの外交部(D.S)へ出された手紙には「我々の部は口頭で,このコレクション(戦争画)を戦争裁判の際の証拠として使用するか否かはっきりするまでこのままの形で保管するのが望ましいとの命令を受けた。」とある。この文からは,絵を単に記録として裁判の際の証拠とするのか,戦争画家達を戦犯として裁判にかける可能性があるのでその証拠とするのかははっきりわからない。実際は戦争画はそのどちらの役目もつとめなかった事をここに記しておこう。また,この背後には,日々刻々と変貌する国際情勢を見ることもできる。例えば1951174
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