鹿島美術研究 年報第2号
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7月26日には,はやくもワシントンの軍部戦争資料課へむけて船にのせられた,とあ24日,GHQのトラックによって153点全部都美術館より運び出された。記録によるとモランダムの14章にはこうある。「これらの絵には,ソ連や中共を含む連合軍の数国が題材として扱われているので,現在オーストラリアやオランダから要請のあるまま絵を散在させる事は望ましくない。…すべてはワシントンが検閲してから決定する事がましい。」1951年には,米国とソ連,中共との関係はすでに複雑化していて,このように慎重な態度をとらざるをえなかったと思われる。戦争画は,日本の手中にあれば日本の再軍国主義化のプロパガンダに使われる恐れがあるとして,最終的には米国が回収したわけであるが,反面,連合軍の手に渡ると反日の目的でプロパガンダとして使われる可能性が大きかった。米国としては,回収の必要は感じたが,他の連合国との関係も考え合わせて,それを積極的に反日宣伝として使う意志はなかったとみえるし,事実,米国に渡った戦争画は全く人の目にふれる事なく倉庫に納まっていた。一方,日本側には戦争画を納めた東京都美術館内1階5部屋の展示室の開放を求める声が強くなっていた。民間情報教育局のファイルの中には都美術館館長,日本美術家連盟,また毎年,美術団体連合展を都美術館で催していた毎日新聞の社長らから提出された明け渡しの陳情書が残っている。文化の復興とともに年々,美術館のスペースの需要が高まってきたことが理由の1つであろう。事実,米国側としても占領6年目となり,美術館という公的スペースを占領している事が,国際法的に見てもむずかしくなってきていた。また,1951年9月のサンフランシスコ講和条約調印をひかえて,その前に戦争画の処分を法定しなければ「所有が日本に戻るので,それまでに移動させるか破壊しなければならない」と急ぐ姿勢が見える。⑨実際の移動は,一度1950年4月〜5月に考慮されたが実現せず,結局1951年7月る。都美術館の問題のスペースは7月30日に正式に日本政府に返還されている。⑩しかし,その処分に関し,持てあまし気味であったとすらみえるGHQの戦争画に対する態度は,最後になって意外な程繊細な一面を見せた。1951年8月8日付機械部隊より民間情報教育局へ提出されたチェックシートによると,ワシントンで受取る側に対して「船が到着したらすぐ荷解きをする事。積荷の関係で,キャンバスを巻かなければならなかったが,収納されていたコンディションが悪く,絵は大変破損しやす年5月28日付の民間情報教育局のチーフであるニュージェントより本部へ送られたメ-175-

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