(ウ)美術に関する国際会議出席期い状態にあるため,すぐにチェックする事」とアドバイスをしたとある。事実,ワシントンではそれに従って船が到着してすぐ,それらの状態を調べ,写真撮影し,記録作成して収納している。それらの絵は,そのまま米国に十数年間忘れられたまま存在した。戦争終結とともに美術としての価値を失った記録画の数々は,果してはじめから絵画であったのだろうか。戦争画家達は,それを記録画と呼び,写真記録と同じと思いたがる。プロパガンダが目的とはいえ,それらはポスターやがらとは全く違う性質のものであった。戦争中に数多く開かれた聖戦美術展などで,何万人もの人々をその前に集める事ができたのはなぜだろうか。戦争画は,やはり文化人の見た戦争,美術家の信じた戦争として描れ,また受けとめられたからこそ,物としてではなく象徴として,記録としてではなく思想として存在していたのだ。それ故に敗戦後,絵画としても存在理由を失ったのである。その意味で以上の153点が,戦利品として米国に押収されていた事は不思議でもなければ,理不尽な事でもなかったと言えるのではないだろうか。戦後,美術ジャーナリストであった船戸洪吉は,3 0数年前にこれらの絵を見て,「『強者どもの夢の跡』という陳腐な表現が口に出た」と書いている。⑪実に,強者どもが大衆に与えた夢は悪夢であった。戦争画の責任はその悪夢を理想として民衆に説得した事にあるが,その責任を数人の美術家におしつけるのは,ぃつの世にも複雑な政治と美術の関係を考えると,かわいそうな気もする。(1)研究者:東京国立文化財研究所保存科学部生物研究室長新井英夫研究課題:第6回国際生物劣化シンポジウムヘの参加間:昭和59年7月24日〜昭和59年8月18日(26日間)出張国:アメリカ合衆国及びカナダ日程:昭和59年7月24日7月25日〜31日ポール・ゲッティ保存科学研究所(ロサンゼルス)成田発→ロサンゼルス_176-Attending to the 6 th International Biodeterioration Symposium
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