鹿島美術研究 年報第2号
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通講演題名「ロダンと極東」訳:国立西洋美術館研究員馬渕明子本日皆様にお話しするのは,ロダンの感受性に対して東洋がどんな役割を果したかという内容でございますが,先ずその前に日本に来る度に味わうこの喜びをお伝えしたいと思います。そして私個人と私が代表しておりますパリのロダン美術館の名において,日本を訪れる可能性を与えて下さった鹿島美術財団に対して心よりお礼を申しあげたいと思います。またこの旅行のお繕立とお世話をして下さった国立西洋美術館の皆様に対しても同じく深く感謝しております。ロダンと東洋について語ることは,この偉大な彫刻家が,世界のこの地域の美術にどれまでに啓発されたかを正しく評価することであり,またアジアから到来したものに,いかに関心を抱いていたかを示すことでもあります。なぜならこの偉大な芸術家は同時に好奇心の塊であり,収集家でもあったからなのです。ロダンがアジアの人々と文物に対して具体的な関心を示しましたのは,1890年代になってからです。彼はその時もう50代になっていました。そして東洋の文物から影聾を受けて作品を作りはじめたのは,もっと遅く1906年になってからです。つまり彼は時代の波に乗り遅れていたといえましよう。浮世絵版画がフランスの芸術家達の間では既に1860年頃から知られ,好奇と讃美の的となっていたのですから。西洋の美術に対する浮世絵の決定的な影騨は19世紀の美術史における基本的な側面の一つなのです。版画や日本の品物を売る店がパリに数多く現われました。また明治天皇の政策がこのジャポニズムの時代に好都合に働きました。例えば日本に旅行するフランス人がいたり,1878年と1889年のパリ万国博覧会の時日本が参加した事などです。文学においても音楽においても,そして料理においてさえ「日本のもの」は大流行しました。パリでは日本風サラダなるものが有名になったりしたものです。日本の版画のお陰で芸術家達は現実に対して新しいアプローチの仕方,人間と自然を表わす新しい方法を学びました。日本美術は,黒い輪郭のある陰影のない平坦で均ーで鮮やかな色の用い方や,中心的な主題を画面の中央に置かないという大担な手法を採っていたのです。つまりヨーロッパ的な遠近法的な手法を排していたのです。西洋にとって伝統的であった物の見方は,これらのものに出合って動揺を来たしました。版画に表わされた動作や,服装や物を理解するだけでさえ,その国の社会や文化に対する深い知識を必要とするのに,ヨーRodin et l'Extreme-Orient 13 モニック・ローラン女史

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