ロッパの芸術家達はそれに必要な知識を全く持っていなかったのですから。東洋の,そしてとりわけ日本の物に対するその時代の熱狂にロダンが乗り遅れたというのは,どのように説明したらよいのでしょうか。日本の文物がフランスに現われた1860年頃にはロダンはまだ20歳にすぎず,彼の家庭は貧しかったので,美術作品に関心を持ち得るような趣味も経済力もなかったからと考えられます。彼自身装飾の仕事を請負う職人として建築の正面の飾りや,屋内の豪華な装飾の彫刻を作って生活していました。この様な職人の仕事と並んで個人として名の残る作品を発表したのはひとえに彼の頑固さによるものです。彼は自らの作品に,とりわけ人間的真実を表現しました。1864年には写実主義的に表現された《老いた男の肖像》《鼻の潰れた男》を展覧会に送り拒否されました。これはギリシャの思想家を思わせるものです。ーで制作を続けたのです。彼はそこで,7年間仕事熱心でそして余り知られる事のない生活を送りました。その間は一度だけイタリヤに旅行しルネッサンスの傑作に大いに啓発され,特にミケランジェロの作品から深く影需を受けました。帰国してからの1877年のサロンに《青銅時代》を発表しました。彼個人の作品としては,初めての等身大の作品でした。これは激しい賛否両論を捲き起しました。と言うのは,その彫刻が余りにも生命力に満ち,解剖学的にも完璧だったので,モデルの体から直接に彫刻の型を取ったといわれたものです。〈青銅時代》のスキャンダルはジャーナリストや批評家達の注意を惹きました。彼等のお陰でロダンは1880年に非常に重要な注文を得る事が出来たのです。それは《地獄の門》です。パリの装飾美術館のための6m以上もある巨大なものですが,これは決してその場所に据えつけられることはありませんでした。と言うのはロダンは一生掛けてこれを仕上げていたからなのです。この〈地獄の門》という名前はダンテの「神曲」から取られました。この中でダンテは地上における罪を償なう死者達の苦悩を表現しています。この壮大な構想は劇的で大胆に表現され,互いに縫れ合う200もの人物で埋め尽くされています。ロダンは〈地獄の門》の為に作り出された人物を一つずつの作品としても発表しています。中でも世界的に有名なものとして《考える人》があります。これはミケランジェロの〈モーゼ》の筋肉質の力強さからインスピレーションを得たもので,その精神を集中した様子によって知的な瞑想を普遍的に象徴するものとなったものなのです。また《接吻》はこれは大理石で作られたものですが,均整と調和のとれた形を持ち,情熱的な恋の完璧なイメージと1870年普仏戦争はフランスにおける芸術活動を中断させました。そしてロダンはベルギ-14-
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