ケシ95年までにかけてこの作品を作りました。これが〈カレーの市民》です。彼はこの年月をして世界に知られています。ロダンは完全主義者で仕事は遅く,同時にいくつもの作品を抱えていました。実際彫刻は金と時間の掛るものなのです。材料は高く,大規模な彫刻を制作するには広いアトリエが必要です。その上,彫刻家は一人では仕事は出来ませんから助手に金を支払います。その為,公の注文を得ることに彼は熱心になります。当時は公の注文だけが彫刻家の名声を高め経済的な保証を与える事が出来たのです。ロダンは1884年にカレー市から注文されて,この作品に掛りきりになります。これは公のモニュメントながら極めて独創的なものでした。これは一人の人物の栄光を称えるといった通俗的,伝統的な構想ではなく,少しづつなった死に近づく人の感情を表わす6人の人物をここに登場させています。つまり彼等は人質として刑場に向うところなのです。《ヴィクトル・ユーゴーの記念碑》もまた,1885に亡くなった詩人を永久に称える為に作られました。これはパリのパンテオンに祭るための彫刻です。次いで1898年ロダンは《バルザックの記念碑》を発表しました。これは一般にはひどく評判の悪いものでしたが,洞察力のある批評家や愛好家達には,その力強い簡潔さと様式として高められた形の大胆さによって,近代彫刻の表現方法に新たな道を切り拓いた作品として認められたのです。これはムードンにある石音の原形です。彼の絶えざる活動は彼自身の生活もまたそこに全面的に投入されていたのですが,1895年までは経済的ゆとりをもたらしませんでしたし,名声もようやく1900年以降に得られたのです。ですからこの時からようやく収集家としての趣味も満たされるようになったし,彼の世界的名声のため遥か遠くの国々から来る芸術家達をその身辺に惹きつけるようになったのです。ロダンに影椰を与えた東洋の国々をその重要度の少ない順から申しますと以下次の通りです。先ず中国ですが,これはロダンにとってさほど重要ではありません。清代の終り頃の歴史的な状況は,外国との交流に好都合なものではありませんでした。ロダンが中国の物品を手に入れた経緯は定かではありませんし,以下その品々をお見せいたします。先ずロダンが持っていたこれらの品物ですが,これは唐代の埋葬品で,傭で出来た騎馬人物です。それからこれもやはり唐代の埋葬品で男を現わします。これら2点の小彫刻はそれぞれ宮廷の高官の姿を現わし,あの世に旅する死者の伴として墓に置かれました。またロダンのコレクションには中国陶磁器もいくつか見られます。例えばこれは染付けの陶器の椅子です。制作は18世紀末。これは庭に置かれる椅子で蓮の花と芥子の花の飾りがあり小銭の型-15-
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