9年間も続きました。この女性の本名は太田ひさと言います。恐らく名古屋の近郊で1868資料がないので分りません。これとは反対に花子とロダンの係りは1906年から1914年まで年頃に生れたと考えられます。貧しい家の出で極く若い頃に旅廻りの芝居の一座に入りました。そして次にヨーロッパの巡業をする頃,アメリカ人の著名な舞踊家ロイ・フラーが同時に興行のマネージメントを兼ねていたのですが,この太田ひさの居る一座と契約を結びました。花子という芸名は芸者の仇討ちという芝居の中で彼女が演じた女主人公の名からとられたものでありました。彼女はロダンに宛てた写真が示すように仲々愛らしく優美ですが,彼女の演じた役はかなり激しいものが多かった様です。下の所に花子のサインがありまして英語で「ロダン先生に愛を込めて花子」という風に書かれてあります。そしてロダンは短刀で自分の喉を突くシーンでの彼女の動作に非常に強く惹かれました。これがロダンの彫刻に留めようと夢中になったあの恐ろしい〈死の首》です。花子自身日本の新聞のインタビューでロダンが彼女の肖像を作った時の様子を度々語っています。彼女はパリ近郊のムードンのロダンの家でポーズすることが多かった様です。ムードンにはロダンのアトリエ兼住宅があり,彼の忠実な伴侶ローズ・ブレーが住んでいました。ローズ・プレーは普段はロダンに近づく女達に対し非常に嫉妬深く,またロダンの方もその恐れを裏付ける非常に女好きだったという事実がありました。しかしローズは花子に対しては信頼を置いていました。この2人の女性の間には友情が存在していました。花子がロダンに宛た手紙に何度もそのことが読みとれますし,またローズに捧げたこの思い出の写真もそれを証明しています。けれども彼女達の関係も最初からうまく行った訳ではありません。花子は先ずローズの服装と物腰が余りにも地味なので,彼女がロダンの伴侶としてその栄光に価しないと考えて,彼の召使いではないかという風に思った程です。ロダンは普段モデルをアトリエの中で自由に歩き廻らせておくのですが,花子に対してはポーズを取り続けることを要求しました。彼女の方は《死の首》のポーズをし続ける苦痛を度々嘆いています。ポーズは一度に20分も続き,ポーズとポーズの間にはロダンは花子に煙草やチョコレートを振舞ったりしました。この結果,平穏な表情から激しい荒々しさまで,夢心地から苦悩の表情まで,全ての感情を表わす顔の連作が出来たのです。これは伝統的なタイプの胸像です。これは写真で見た花子の顔立ちに近く,憩う花子の静かな魅力を表現しています。次に〈顔のタイプA》これは不安そうな雰囲気を表わしています。西洋美術館にもブロンズがありますが,この師の一行に加わったのです。1904年19-
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