•林は友人のため(日本への土産か)に,ヴェヴェールに装飾品の注文をしていた。・1900年ころ,末弟萩原がパリの店を預っていたが,経営はあまり旨くいっておらず,1893年12月2日付の最初の書簡から全104通を読み下しタイプ打ちをした。現在1900めての記述は1896年3月にあらわれる。1905年,1906年の書簡には出席者として,・ヴェヴェールは1898年頃に自分のアトリエを日本の美術品で装飾するため,林から多くの作品を購入し,またアトリエの装飾の相談にものってもらっていた。・ヴェヴェール・コレクションの印は,1898年に林が日本に帰った時に彫らせるよう注文したものだが,おそらくその時所有していたもの,その後購入したものに捺印したもののようで,購入年代の推定には役に立たないように思われる。また自分も帰国の際持ち帰ったようである。ヴェヴェールに借金をしていた。て死の床に立ち会っている。以上のことから,浮世絵以外のヴェヴェール・コレクションの所在,林が作成した作品カタログなどを追求できるかも知れない。また,林を通じて日本に入ったヴェヴェールの装身具などの行方を捜せるかも知れない。ヴェヴェールのアトリエが残っているかどうかを碓かめることも必要である。②エルンスト・グルッセ及びマリー・マイヤー書簡年までの80通について内容の検討を行っており,それにより次のことがわかった。・グロッセとマイヤーは義理の親子関係にあること。・内容は美術品等の注文,照会が大半であるが,グロッセ,マイヤーと林の関係は単に顧客と商人といった間柄のものではなく,プライベートな交友もきわめて親密であった。例えば林が自分の甥の留学に関してグロッセに助言をもとめているが,グロッセは甥のフライブルグ医学進学コースヘの入学準備等万般にわたって親切に面倒を見ている。また,林も美術商としての立場からでなく,彼らに日本及び東洋美術の知識を絶えずあたえている。・具体的な照合はまだ出来ていないが,グロッセやマイヤーという知日独人の周辺にいた日本人名が明らかとなった。Kcechlin, Migeon, Houdard, Demaison, Isac, Marteau, Rouart, Deshayes, DL Ancelet, Henri Riviさreらの名がみえる。• 1902年の萩原の死に際して,日本にいた兄に代ってヴェヴェールが遺言執行人とし-61-
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