なるものであろう。それらは,印つきの具合から見て,石印と考えられる。また,押印法にも,雪村の個性がでている。つまり,一つの画に,一つの印章に留まらず,—っ,三つ,四つと複数の印章を押すことが,少なくない。一つの印章を,離して押す遊印風な押印,款記の頭のそばに押す関防印風な押印がみられ,そこに,中国風の影臀が感じられる。雪村は,印章の使用についても,時々の好みがあったようで,ある時期よく使ったものは,次の時期には,用いないといった傾向が見られる。⑥白文方印「雪村」は,前期(第二期)の作と考えられる作品にだけ押された印章である。また⑩朱文鼎印「雪村」,⑫朱文方印「浮」は,中期の作品,つまり,黒川時代前期(第四期)の作と思われる作品にみられ,これらは,ごく限られた時期にしか使われていないのである。⑫の印文は,「水字」とも「浮」とも読めるが,一応「浮」と読む。この「浮」は,『荘子』刻意篇にある「其生若浮,其死若休」に典拠していると考えるからである。また,三,四種の印章を,ある時期に集中して用いられている場合がある。例えば,行年七十一歳の「竹林七賢図屏風」には,⑭朱文由印「雪村」,⑮白文方印「鶴船」が押され,また行年八十二歳の「灌湘八景図屏風」には,⑭朱文由印「雪村」,⑬白文楕円印「雪」,⑯朱文長壺印「周継」が押されている。そして「雪村自画像」には,⑬,⑭,⑮,⑯の印章が押されている。とすると,この四つの印章は,後期の作品,つまり「三春時代」(第五期)の作品に使われたことが分かる。なお,印文「雪」は,雪村の別号「雪」からきており,これは,最近見いだされた<竹雀図>の落款「雪老筆」から分かった。以上,印章の使用の特色から,雪村画の編年を考えてみることも,一つの手である。もちろん,雪村が規則正しく印章を使い分けしているとは限らない。例えば,中期の「小田原・鎌倉時代」(第三期)と「黒川時代」(第四期)の印章は,重複して使用されていると考えられ,各作品の様式の検討を必要とする。* ところで,雪村の足跡を辿ると,彼は天文15年(1546)5月,岩代の黒川(会津若松)で,戦国大名の黒川城主,芦名盛舜の嫡子である芦名盛氏(1521■68)に,「画軸巻舒法」を授け(この黒川滞在は「前期」に含めて考えている」,のち,同じ年の6月27日に,下野の鹿沼にある今宮神社の玉殿に神馬図(百馬図巻か)を奉納している。その後,天文19年(1550)の春,小田原の箱根湯本の早雲寺において開山の以天宗清(1472■1554)の頂相を画いている。この「以天宗清像」には,画面左下隅に,謹直* -71
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