鹿島美術研究 年報第3号
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11.祇園日吉山王祭礼図屏風(サントリー美術館)ころがあるので,ここでは光信の代の作品と考えておきたい。光信の子,光茂の生卒年もはっきりとしない。『地下家伝』によれば,明応五年(1496)の誕生となる。光茂の遺品と考えられるものを列挙する。1.足利義晴像(京都市立芸術大学)天文十九年(1550)2.牡丹花肖柏像(反町家)大永七年(1527)の賛がある。3.牡丹花肖柏像(大広寺)天文二十年(1551)の賛がある。4.春屋宗永像(大慈院)天文十五年(1546)の賛がある。5.当麻寺縁起絵巻(当麻寺)享禄四年(1531)6.桑実寺縁起絵巻(桑実寺)享禄五年(1532)7.長谷寺縁起絵巻六巻本(長谷寺)8.八幡縁起絵巻(由原八幡宮)9.十念寺縁起絵巻(十念寺)10,車争図屏風(仁和寺)12.堅田図(東京国立博物館)肖像画のうち大広寺本「牡丹花肖柏像」には光茂の印章が捺されている。この印は『古画備考』には補遺として収録されているが,実際の遺例は稀である。同図には天文二十年(1551)に春林宗{叔が,堺の商人河内屋宗訊の依頼によって書いた賛文がある。宗訊は肖柏の門人でもあり,天文二十年は肖柏の二十五回忌にあたる。春林宗{叔は後に大徳寺住職にもなっているが,堺の陽春庵や禅通寺に止住しており,室町末期における堺の文化を物語る資料ともなっている。肖柏及び光茂も晩年には堺に移り住んでいる。一方の反町家本「牡丹花肖柏像」には肖柏没年の大永七年(1527)に常庵龍崇が着賛している。両図は大広寺本が椅子に坐し,反町家本が上畳に坐すというように姿勢は異なるものの顔の向きから表情,そして装束に至るまで寸分と違わない。両図には二十五年の隔りがあるが,同一の下絵を用いなくてはこのように似ることはないように思われる。もし,大広寺本が光茂筆であるならば,反町家本も光茂筆の可能性が有る。春屋宗永像は珍らしい尼僧の頂相である。本図には光起による光茂筆という紙中極めがあるが,賛文は天文十五年(1546)に,大広寺本「牡丹花肖柏像」と同じ春林宗傲が書いている。光茂筆と考えられる肖像画に同一人物が着賛しているのは偶然とは-83 -

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