まず,「堅田図」であるが,これは瑞峯院襖絵の断片と伝えられる。瑞峯院は天文—思われないものがある。しかるべき根拠があって光起も紙中極めを書いたのではないだろうか。絵巻では「十念寺縁起絵巻」がこれまで光茂筆と言われたことを聞かない。この絵巻には元禄十五年(1702)に交野時香が詞書を新しくとりかえた旨の政文があって,そこには光信筆とある。しかし,画風からすると光信筆とするよりは光茂筆とする方がふさわしい。制作年代についてはこれまでも指摘されているように,同寺に伝わる一本の勧進帳の年記,天文五年(1536)に勧進を行なうために縁起が絵画化されたものとしてよいであろう。光茂筆と考えられる障屏画として三点をかかげたが,いずれもこれまで光茂筆とはみなされてこなかったものである。間に合致する。光茂は天文十九年(1550)五月初めには病床の足利義晴の肖像を描くために近江穴太(琵琶湖西岸)に赴いている。同年末から翌年二月まで義晴の後を継いだ,足利義藤は三好長慶に追われて近江堅田にとどまっていた。私は土佐光茂もこの時,将軍に従って堅田に下ったと推測しているが,帰京後の光茂は瑞峯院住職,徹抽宗九の依頼によってその方丈に堅田図を描いたものらしい。禅寺に大和絵が描かれるのはきわめて違例であるが,これは,方丈の他室を描いた狩野元信が義弟のためにはからった仕業と思われる。なお,徹抽宗九は光茂筆の肖像画に着賛している春林宗傲の師である。こうした事情はともかく,現存する「堅田図」は明らかに光茂様をしている。仁和寺の「車争図屏風」とサントリー美術館の「祇園祭礼図屏風」を土佐光茂筆とする根拠も様式にもとづくものである。両図ともにこれまで江戸初期の作とされてきたものであるが,両図の人物は明らかに光茂様を示している。特に仁和寺の「車争図」屏風は『御湯どのの上の日記』永禄三年(1560)にみえる車争図屏風にかかわるものではないかと考えられる。仁和寺に源氏物語に因んだ絵が伝わるのも奇妙であり,にゆかりのある仁和寺のことであるから,いずれこの屏風も宮廷より下賜されたものと考えたい。これらの図は,漢画における狩野永徳の衆光院障壁画(永禄九年,1566)の大和絵版といえよう。室町時代末期から江戸時代初期までは様式的には一つの時代とみなすべきこともこれらの図は示している。(1552)から弘治三年(1557)の間の造営と伝えられる。これは光茂の活躍期84
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