鹿島美術研究 年報第3号
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(12章10節)からの引用であり,この部分に続くゼカリヤの13章1節には「罪と汚れme〔り〉の言葉が発せられているが,その字句の間に「<む物」が配されることによまた,画面左端には窓があり,そこから街角の一風景が遠望される。ここで特徴的なのは,長い槍を肩に担いで後を仰ぎ見ている手前の男性と,中景に描かれている1つの井戸である。ヨハネ福音書には,「彼ら〔キリストを十字架にかけた兵卒たち〕は自分が刺し通した者を見るであろう」(19章37節)とあり,まさにこの言葉に応えるかのように,画中の男は,胸の傷もあらわに墓から復活したキリストの方を見ている。ヨハネ福音書のこの言葉は,旧約のゼカリヤ書の一節,「彼らはその刺したる者を見る」とを清める一つの泉が,ダヴィデの家とエルサレムの住民とのために開かれる」ともある。実際,画中の街には「一つの泉」が見えており,この風景はしたがって,史伝的解釈によればエルサレムの街,救済論的解釈によればく新しきエルサレム〉である。そればかりではない,ゼカリヤは同じ章で自らを「土地を耕す者」(Agricola)(5節)と呼んでおり,そこには,画面左側で寄進者の執り成し役を務めている,アヴィニョンの司教聖人アグリコールの名がすでに暗示されているのである。一方,ゼカリヤ書にある「一つの泉」は,タイポロジカルな解釈によると,ヨハネ福音書のサマリヤの女の挿話に出てくる「ヤコブの井戸」(4章6節),すなわち「永遠の命に至る水」(同上14節)に一致する。この挿話で最も重要な役割を果す小道具すなわち,水を「<む物」は,寄進者とキリストの中間に吊り下っている。これは,キリストが洗礼(=水)を介して人間を救済に導くことを直接的に視覚に訴えようとするものである。画中では寄進者の口からキリストに向ってくSalvatormundi, miserere って,それは「救世主よ,水によって,我を救い給え」と解されるからである。「一つの泉」(ないし「ヤコブの井戸」)や「<む物」によってく水〉が暗示的に表現されているのに対し,キリストの流すく血〉は画中にはっきりと示されている。このようなく水〉とく血〉との対比もまた,極めてヨハネ的な観念であって,「ひとりの兵卒がやりでその〔イエス〕のわきを突きさすと,すぐ血と水とが流れ出た」(19章34節)の記述もヨハネ福音書にしか見られない。またキリストの右に吊してあるランプについても同様のことが言える。すなわち,暗い壁に囲まれた空間を照らし出す一つの明りは,「光はやみの中に輝いている」(1章5節)ことの暗示である。しかも,寄進者の側から見ると,キリストとく光〉が二重映しになるようランプの位置が工夫されており,まさに「わたしは世の光である」(8章12節)に応えていると考えられる。-86 -

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