鹿島美術研究 年報第3号
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に還元されている。これによりテーマの配置に沿った垂直方向への指向性が高められ,重層構図における水平方向への図像モティフに対する空間本来の拘束力はさらに減少しているといえる。こうした三次元的な空間規定との弛い関係は,幻視イメージについての本文テキストのあいまいな空間規定に対処する上で,金地がその上に幻視イメージを映し出す一種のスクリーンと化すことに何ら異議を差しはさまない様に思われる。つまるところ金地が異次元性表現のために一役かっているわけであるが,金地のもつ恒常的性格が,個々の図像モティフに常に起こりうることとしての,ある種の恒常性と普遍性を付与し,象徴化の傾向を強めていることも見過ごせない。結論を急ぐなら,構図と金地の検討によって,「バンベルクの黙示録」と前述の「トリール本」との差異の根底には,結局「narration」から「presentation」への展開があったと言えようが,ここに辿り着〈前に,「バンベルクの黙示録」における幻視のイメージが「トリール本」に比べより客体化されているかどうか,ヨハネ像についての分類を試みた。図像モティフの一つとして定着し,テキスト上も幻視イメージと直接関わりのあるヨハネ像を除外し,図像モティフとして必然性のないヨハネ像を抽出したところ,そのうち半身像のヨハネが大半を占め14回にわたって描き出されている。その場合画面枠や,図像モティフ(山や海等),金地の色面などによって半身が遮られているのであり,殊に画面枠の下辺で遮られている場合には左右どちらかの角に,ニュース画像を背にしたニューキャスターのごとく置かれている。しかもラィヒェナウ派特有の指示性の強い身振りが繰り返され,それによって画面の中心テーマに向けての視点が固される方向へ向かう。たとえばfol.19Vや40Vの場合,すでに述べてきたように二段構成をとり,背景は中空部分が上下段ともに金地である。そしてこれに加えて画面枠の右隅に幻視イメージに眼を向けた記者ヨハネの半身像が描かれているのである。画面枠とヨハネの重なりは画面枠と幻視イメージの間にもう一つの異次元空間が存在するような錯覚をもたらす。つまり「トリール本」において主要図像モティフに付加的に添えられていた記録者としてのヨハネが,金地のスクリーンを背にした伝達者もしくは仲介者に変貌を遂げたのではないかと思われる。こうした点を実証的に裏づけるためには,黙示録自体についての終末論的解釈が成立し,普及した経過を可能な限り跡づけることが必要となってくるだろう。もっとも果して教会の勝利,ローマ教会の確立といった実際に期待され得る出来事の予告として受け取られてから,終末論的解釈(D) ヨハネ像について-92 -

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