鹿島美術研究 年報第3号
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いたはえのそまつげかじかけ(1) 奈良県山辺郡山辺村大字広瀬小字上出にある西方寺は,明治42年に近くの小字今(2) 八葉蓮華寺のある大阪府交野市傍示の地は,その地名が河内大和両国の境界に立(3) 奈良県磯城郡田原本町大字八尾の安養寺に客仏として伝えられる阿弥陀像は,江めると,快慶在銘作品,就中,像内を密閉状態にする立像の場合には像内奉籠は必然的なものであったように思える。未だX線透視撮影を行っていない光台院阿弥陀三尊像大行寺阿弥陀立像等にも何らかの納入品があることが充分に予測されうる。次に,本研究に際しで快慶作品をあらためて整理し,各々の造立事情等を探る過程において気付いた点について簡単にふれておく。快慶の50年に及ぶ造像活動の中心は,東大寺復興造像と重源の建てた七別所の本尊等安置諸像の造立であったといえるが,この七別所のうち高野新別所を除く,大寺・渡辺・播磨・備中・周防・伊賀の六別所がいずれも東大寺の再興に深く結びつくものであったことは毛利久氏(「俊乖房重源と仏師快慶」日本仏像史研究所収)の説かれる通りである。これに加えて他の快慶作品を伝える寺が当時の交通上の要衝に位していることも注目していいのではないか。中から移されたというが,この広瀬は名張川の曲流地にあり,江戸期には大和・伊賀両国を結ぶ広瀬渡があった。また,近くの山辺郡東北部から名張市西北部にかけては,板蠅柚と呼ばれた東大寺領の広大な柚があり,その南限には伊勢に向かう斎宮の通る道,すなわち宇陀郡室生村大字染田から名張へ通じる都祁山の道が走っていた。広瀬からは名張川の支流笠間川を利してこの道に至ることができる。てられた傍示に由来するといわれるが,県境のこの峠を経る峡橙越(大和側では傍示越え)は古来,河内と大和を結ぶ要路で,北河内から南下して高山(生駒市)に入り,富尾川沿いに郡山(大和郡山市)に入るルートは平安から鎌倉時代にかけて京から熊野への参詣道として利用された。戸時代に近〈の浄国寺から移されたと伝える。いずれにせよ,この地は奈良盆地中央を南北に縦貫する重要な古代交通路下ツ道の要衝に位置している。この像を含めて,磯城郡川西町大字保田の光林寺阿弥陀如来立像,奈良市五条町西方院阿弥陀如来立像がいずれも大和川流域に存在することは,大田古朴氏(「大和川流域の仏師快慶作彫像」史述と美術409)によって指摘されているが,寺川,飛鳥川,曽我川,富尾川,竜田川,葛下川など奈良盆地の水を併せて西流し大阪湾に注ぐ大和川は既に飛鳥時代からその舟運が利用されたといわれ,治安二年(1023)には藤原道長一行も京から河内へ下っ-95 -

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