ている。(4) 如意寺のある宮津市字由良は由良川河口西岸にあたり,若狭湾に面している。由良川を遡ると,福知山で二岐に分れ,上は由良川沿いの綾部街道,下は土師川沿いの京街道(山陰道)となり,京へと通じる。(5) 京都大行寺阿弥陀像は,濃州綾野村の浄徳寺旧蔵と伝える。綾野(大垣市)は綾里輪中の農村で杭瀬川中流右岸に位置する。杭瀬川は西濃地方を流れる川で,古くは水運にも大いに利用された。河岸の赤坂町は東山道(中山道)の宿駅であった。(6) 円福院釈迦如来像は安永八年(1779)頃までは滋賀県栗太郡下田上村黒津の正法寺にあったと伝える。黒津は大戸川の北側,瀬田川との合流点で大日山南麓に位置している。この合流点は瀬田川唯一の渡渉可能の場所であり軍事上においても重要地点であった。大津そのものが古代からの琵琶湖水運の一大拠点として栄えた所で,越前・越中・若狭など諸国の雑物は湖北の塩津や勝野津(高島町)から湖上を船で大津へ運ばれ京へ送られた。最近発見された彦根市回常寺阿弥陀如来像もこれに含めることができるが,また古代の東山道は彦根市を南北に通っていた。(7) 舞鶴市大字松尾の松尾寺と同市大字鹿原の金剛院は京より若狭への主要なルート丹後街道を挟み相対する位置にある。以上のような要路上の寺々はそのすべてがそうであるとはいえないが,先の六別所が造営物資調達集積の基地とすれば,これらはその運搬のための中継地としての役割を担い,諸国を巡り歩く勧進聖や重源を中心とする弥陀念仏同行衆の拠点・休息場所として利用されたのではないか。彼らが阿弥陀信仰を紐帯として精神的な連帯感を共有していることを思えば,こうした施設には当然阿弥陀如来像を祀ったものとみていいが,新別所の丈六像に対して三尺の大きさこそふさわしいように思われる。-96 -
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