(5) 南薫造の日記ー関連書簡の研究ー(継続)研究代表者:広島県立美術館学芸課長岡本隆寛調査研究の目的:南煎造は明治末から大正・昭和にかけて活躍し,近代日本洋画史に輝かしい足跡を残した画家である。このたび生家とアトリエより発見された日記帳・書簡類は南煎造の大切な伝記資料であると同時に,明治末から昭和前までのわが国の美術状況を知る貴重な資料である。滞欧日記や留学中の書簡類は,日本の青年画家とヨーロッパ美術とのかかわり,及びヨーロッパの美術状況などを知る手がかりとなり,さらに富本憲吉,高村光太郎,有島生馬などからの書簡は明治末から大正期にかけて美術界に大きな影縛を与えた「白樺」とのかかわりを教えてくれる。これらの資料を調査研究して,南薫造の全貌とその周辺を明らかにしたい。研究報告:く南薫造の日記〉南窯造は明治16年開業医の恵まれた家庭の長男として生まれ,広島県立第一中学校から東京美術学校へ進み,同校卒業後直ちにヨーロッパヘ留学した。彼はロンドンでボロー・ジョンソンに学び,さらにフランス,イタリアに遊学し,3年間の留学を終えて帰国し,明治43年白樺杜主催「南蒸造・有島壬生馬滞欧記念絵画展」を開催した。さらに,文展で5回の受賞を重ねる華々しい活躍により33歳の若さで文展審査員に抜擢された。その後,文展,帝展,光風会展,日本水彩展などに多くのすぐれた作品を発表して昭和4年帝国美術院会員に推され,さらに,昭和7年母校の東京美術学校教授に迎えられ,以後10年間後進の指導に当たった。昭和19年帝室技芸員に推されたが,晩年は戦災を避けて疎開した郷里の広島県内海町で生活し,瀬戸内の自然を愛し,その風景をこよなく描き続けた。その生涯は多彩な恵まれた境遇であったが,彼は青年時代から晩年まで日常の生活記録を日記に詳細に書き綴っている。それは21冊の日記帳からなり,概要は次の通りである。中学時代の日記は,広島県立第一中学校3年であった昭治33年1月1日から書き起同上学芸員高木茂登-100-
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