こされ,明治35年4月東京美術学校入学までを書き綴ったもので,下宿生活の様子を丹念に記録し,学業成績の一覧表やペン画の挿絵を書き添えている。美校時代の日記は,明治37年6月の夏休暇から明治40年美術学校を卒業しロンドンに留学するまでを綴ったもので,彼は首席を競った特待生で努力型の秀オであったことが判る。また,3年生の時第9回白馬会展をみて,その感想を記しているが,青木繁の作品《海の幸》を始め多くの作品に適切な批評を加えている。さらに,従妹の住村綾子に寄せる初恋の思いを切切と書き綴って興味深い。「滞欧日記」については,昨年度報告したところであるか,ロンドンで師事したボロー・ジョンソンや,同じ留学生であった富本憲吉,高村光太郎,白瀧幾之助,有島生馬等との交遊関係を知ることが出来る貴重な記録となっている。大正元年から大正10年までの日記は3冊のノートに記されているもので,断片的な写生旅行記が中心になっている。大正5年3か月にわたって旅行した「インド日記」は,風景描写,風俗描写が詳細に書き綴られ興味深い旅行記といえる。昭和3年から6年にかけては3冊の市販の美術日記帳に記されて,毎年夏休み家族そろって館山に避暑に出かけた様子など,幸せな家庭の団らんを窺うことが出来る。昭和7年から10年にかけては,4冊の日記帳に日常の生活記録を淡淡と書き綴っており,東京美術学校の授業や,帝展審査状況等にも触れている。昭和11年から15年は5年連用日記帳に,朝鮮,北海道,軽井沢等への写生旅行記を中心に書き綴り,昭和16年から18年は3年連用当用日記に,信州沓掛での楽しい避暑生活から戦時色が強くなった昭和18年,東京美術学校を辞任して,郷里に疎開するまでを記録している。また,昭和14年3月から5月にかけて中国戦跡を巡回した記録を「中支那従軍日記」として1冊のノートに書き残している。昭和19年から23年までの「内海日記」は,郷里広島県内海町の生家に娘・孫たちと疎開し,没する前年までの記録を5冊の大学ノートに記している。敗戦までの日記は,戦況,防空壕堀り,野菜づくり,空襲警報等について詳細に書き綴っており,当時の社会状況を教えてくれる資料といえる。戦後の日記は,娘,孫たち11人の大家族の生活を記録するとともに,作品の制作活動について記し,戦時中は要塞があったことから瀬戸内を自由に写生することは出来なかったが,戦後,それが許され,南は四季折々の瀬戸内風景,日の出,月をテーマにした瀬戸内海を精力的に描いていることが記されている。-101-
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