鹿島美術研究 年報第3号
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② 高村光太郎書簡月の第1信で渡英の決心を述べ,滞在費用や,勉強方法について質問し,11月の第4信では友人らが開いて〈れた送別会の席からの寄せ書きを送っている。英国の建築や工芸の研究を目的としていたとはいえ,富本の英国留学は南の存在の大きいことが明らかである。事実,南は,後から来た富本をあちこち案内したり,共同生活をして互いの研究に励んだのである。明治42年から明治43年の春にかけての幾通かの書簡は,滞欧中のその間の生活を物語るものである。中でも新家孝正の助手としてインドまで視察旅行した時の,インドの彫刻や壁画,更紗に感動した模様を伝えたものは興味深い。また明治43年6月15日付の書簡は一足先に帰国していた南にあてた富本の帰国第一報で,不明であった帰国時期を確定するものである。さらに明治44年の書簡の前後の内容からは,明治43年の秋から明治44年1月まで,彼等が再び東京で共同生活を行い,木版画に励んだことがわかる。これは富本の年譜で不明であった所である。また,明治44■45年の書簡では富本が郷里の奈良,安堵村に落ち着〈のが明治44年5月,その頃からさかんに木版画,染色,水彩画,図案,木彫,油絵など広範囲な分野に取り組み,やがて,明治45年7月頃から楽焼を始めていることがわかる。これらも富本の年譜に若干の修正を要する点であろう。さて,富本といえば,「模様から模様をつくらず」の言葉で有名だが,この信条は従来大正4年に確定したように伝えられる。しかし,これに至るまで意外と長い発酵期間があったようで,大正2年11月の書簡には「模様雑感」と題した草稿が同封され,同様の模様についての考えを長々と開陳している。が,これは南だけへの発表に終ったようである。やがて大正3年10月,結婚を期に陶器制作に没頭したためか富本からの書簡は減少し,大正5年6月18日付が現在確認できる最後のものである。交友はその後も継続されたようで,途絶の理由は不明である。しかし,いずれにせよ,これらの書簡は富本芸術の根本思想が形成される時期に書かれ,純粋で多感な青年芸術家が世界を視野に納めた後,安堵村という片田舎に定住し,様々な葛藤の中で広い創造行為の中から,自己の陶芸の道を見出していく姿が浮き彫りにされている。感動的なドラマでもあり,友情の証しでもあるこれらの書簡は,また富本憲吉研究の貴重な資料であることは間違いない。明治42年から大正元年までの4年間に10通の書簡を確認。明治42年の2通は滞欧中-103-

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