③ ④ 「白樺」同人書簡のもので,パリ滞在中の光太郎がロンドンの南にあてたもの。彼等の交友は前年,ロンドンで始まったようで,書簡では共通の話題であるイギリス美術や音楽についての論評が多い。「世界の美術といっても,つまりは静かに制作している人達の作のこと」という光太郎の言葉が印象的。帰国後は白樺主催の有島・南二人展の南の序文を執筆するなど,彼等の間の信頼感は大きいものだったことが推察できる。南の木版画を気に入った光太郎は,明治44年3月瑣旺洞に展示する。それに関連するものが3通。また明治44年4月9日付では,東京の美術界の状況に悲憤,]良旺洞を閉めて北海道に移住,そこで自分だけの芸術王国を建設すると訴える。いずれも光太郎の透徹した美術への意志に貫かれた思想に満たされており,その後の彼の道程を予感させるものといえる。明治43年5月〜6月の4通の書簡は,7月に開催する白樺社主催「南煎造・有島壬生馬滞欧記念絵画展」の打ち合わせのためのもので,広島に帰郷していた南に対して有島は終始積極的に働きかけ,会場探しに奔走する様子を伝えている。一人でもやるつもりだったらしく,当時の有島の気概が知れる。大正2年11月の書簡は二科創設の動きを伝えるもので,文部省に抗議し,建白書を提出した時の模様が語られ,高砂屋での会合への出席を促している。翌年7月の書簡は石井柏亭,津田青楓との三名連署のもので,二科会委員として,鑑査員を辞退した南の慰留につとめている。二科会発足当時の状況を物語る貴重な資料といえよう。武者小路実篤,志賀直哉,正親町公和,有島武郎など「白樺」同人達からの書簡は明治44年から45年にかけてのものが多く,南が「白樺」に文章や表紙絵を送っていた頃のものである。瀬戸内海の田舎の牧歌的な生活を描写した南の文章に対して,彼等は概して共感と憧憬を示し,共通の仲間として次々と白樺への寄稿を依頼している。このように見てくると,近代日本美術の転換点にあった明治末から大正初期にかけて,将来を嘱目された帰朝青年画家南蕉造の周辺に,いかに多くの有望な芸術家達がいたか改めて驚嘆せざるを得ない。彼等の若いエネルギーがやがて渦となり,周辺に大きな影響を与えつつ,新しい潮流を形成していったのである。これらの日記書簡はそのような当時の動きを証明する基礎資料のひとつとなるものと考えられる。いずれ更に整理したうえで意義あるものについて公刊する必要があると考えている。104-
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