真,大久保一岳は柴田是真門である。川端玉章門下生が入っているのは,玉章が自ら洋画を学んだ経歴を持つなど円山四条系の中では進歩派に属し,東京美術学校開校後,教授として招かれることを想起させる点面白い。また菊池容斎は,彼自身は明治11年に他界しているが,その門下から松本楓湖を通じて今村紫紅,容斎に私淑した梶田半古から前田青邦,小林古径等を輩出するなど,明治後期以降の日本画の近代化に重要な伏線を敷いている。その彼の直接の門下生が既に鑑画会にも加わっているのは注目に値する。そしてもう一つ興味深いのは是真門下生がいることである。是真は明治24年に没した芳崖らとほぱ同世代的な画家であり,優れた近代の画家としての評価には異論のないところであるが,社会的には,当時新派の鑑画会とは逆の旧派の竜池会の重鎮の一人であった。その是真が,まだ生存中に,反対派の展覧会に弟子が出品することを認めているのは,是真自身の芸術やその教育方針を考える上にも極めて示唆的と言えよう。以上,今回の調査の成果をまとめてみるなら,実作品の上で新たな鑑画会関係作品を幾つか確認出来たことは大きな成果であった。それを実際の出品歴と比定,確定できないことは問題として依然残るものの,ボストン美術館より売却された絵の中にはその後日本に戻り現在美術館の所蔵に帰しているものもあるため,今後更に調査発掘が必要と思われる。また鑑画会出品作家達の構成が意外にも流派を越えた実力者の門下から集まっていた興味深い事実も明らかとなった。この問題は一方で,鑑画会の流れは確実に東京美術学校に受け継がれたものの,鑑画会関係作家のほとんどがその主流からはずれていった事実と合わせ,鑑画会から日本美術院へと流れる日本画近代化の過程の中での継承と断絶を考証する上で貴重な一石となるであろう。今回の研究テーマに助成いただいたことに心から感謝したい。(7) 近世西洋版画と初期洋風画の関係について研究者:山梨県立美術館学芸員井出洋一郎調査研究の目的:桃山から江戸における洋風画(初期洋風画)はその図像の源泉の多くを,当時わが国に舶載された西洋版画(殆どはフランドル製)から得ている。従って初期洋風画の制作年代や様式,作品の意味内容などを検討するには,原図である版画を確認する作業がまず不可欠である。その上で初期洋風画の成立の事情や文化的背景,思想的意義-109
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