鹿島美術研究 年報第3号
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跛による岩肌の表現に強烈な視覚的印象を与えている点で共通しており,多少の表現技術の違いや粗密の差にもかかわらず,岩そのものの緻密な描写に共通の表現意図が看取できるのである。これは特に苑寛作品に見られるものと同質といってよい。ところが,李唐画はこのような画面形式と跛法を採りながらも,樹木や水流の画面内でのきさが増大し,苑寛や郭煕ほどの大きな空間は感じとれない。その原因は前二者ほど巧みな姻雲表現がなく,奥行表現に効果的な墨の諧調が見られないことにあろう。特に「万堅松風図」においては,墨調による姻雲表現は遠山の尖峰を除けば全く使用されておらず,図式的な雲が絹地の塗り残しとしてあるだけである。高桐院本の墨の諧調も奥行表現に大きな効果をあげているとはいいがたい。このような特色は,前記の南宋諸作に見られる奥行の少ない画面構成と共通するものである。また質感描写が明確すぎるゆえに墨調が単純になり,岩肌の微細な起伏は少な〈なり,面の形成が進んでいる。以上のように見てみると,北宋的な「万堅松風図」も南宋的な高桐院本「山水図」も,様式的には南北両宋の盛期様式の中間的様相を示していることが分かる。なおかつ,早に形態上・性質上の類似点をあわせもつだけではなく,それらの要素が非常に微妙なバランスの上で調和し,独自の緊密な空間をつ〈りあげているのである。すなわち近景と中・遠景の跛が,同じような密度・同じような墨の濃度で描かれているため,画面配置の上では当然遠くにあるものが,妙に近くに感じられ,歪んでいながらも破綻のない特殊な空間ができあがっているのである。李唐絵画の特色は,北宋の大観的な画面構成や微妙な奥行表現から,南宋の局所的に限定された空間や,質感描写の緻密さの減退へと向かう途上の,危ういバランスの上に成り立つ緊密な画面空間にあると言えるであろう。以上の考察は,まだ検討すべき事項が多々あるため推論の域を出ないが,現段階での経過報告としておきたい。また前記李唐,夏珪等の作品の真偽についてはここではあえて問わず,いずれも作者のスタイルをよく伝える作品として扱った。実証的な検証は,また別の機会に稿を改めて論ずることにしたい。-116-

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