二釈迦隆埼計隠計高泉性激音・達磨であるが,華南の明仏教を受け継ぐだけに布袋讃が非常に多い。唐和僧のなかで比較的賛の数が多い,開槃後ほぼ五十年内に活躍した僧の主な語録についてその数をみると,およそ次のようである。これらの賛の数は,それぞれの題讃の約30%に当たる。つまり各々の語録にみる賛の約1/3弱で,また全体の語録から見てもほぼ同様の比率と思われ,その賛の数は膨大といわなければならない。しかも着賛されたものがすべて語録に登載されているわけではなく,また語録はないが着賛のある僧もかなりある。隠元没後百年に当る安永元年(1772)当時の嗣法者だけで2984人を数え,全く賛記しない僧があるとしても相当な数字となるであろう。これら道釈画の筆者は狩野探幽など高名な画家から,画僧そして全く素人絵に至るものを含むと思われるが,黄槃語録だけから見ても禅画の盛行は著しいものがあったのである。なお隠元以下初期の黄槃僧にも四君子や花鳥・山水・人物画など,所謂鑑賞画に対する賛は多く見られるが,やはり時代が進むほどにその比率は高くなる。これはまた南画の成立する過程とほぼ一致する。また池大雅に代表される南画成立の頃になると,黄槃僧の中に全く文人僧といい得る人物が現れる。その例を天年浮寿について見ておきたい。号を終南,庵号介名で知られる。正徳元年(1711)伊勢に生れ,同郷の一年後輩悟心元明と「黄槃の双美」とされ,悟心と共に服部南郭に学び,当代文人との交友があ木庵性培宝洲道聰即非如独照性闘鉄牛道機観音布袋達磨37 41 18 26 51 42 2 56 15 , 82 16 123 41 7 35 7 12 20 18 8 30 3 108 356 144 -120-43 139 21 140 19 199 13 62 31 81 26 67 162 770
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