る。明和4年(1767)江戸の文人濱嶋元成宅で没した。その『介石稿抄』に「観影城蓬洲子所画山水図歌」と題する五言古。「池貸成移居東」の五言律,「贈池道雲」の七言律や「南石」・「墨竹」の画賛がある。また『介石終南禅師遺稿』には,「高襦皮印匝銘」や「宮子常驚竹讃」,「与宮子常」える書,「雪舟禅師豊冨士山図践」,「劉完庵豊巻践」その他がみられ,その文人的性格を見ると共に,豊富な資料を提供する。また語録のほか黄槃文書についても調査したが,そのうち『黄槃山知客寮日記』中に大鵬正鰈への染筆依頼と思われる記事が見られた。まず宝暦十年十月十日条に南知客師二条西役所江海老蟹之画持参とあるのは,知客慮嶽が京都西町奉行所から依頼のあった黄槃十八代住持大鵬の「海老蟹図」を届けたいうものであろう。また同月十一日条には南知客師二条与御帰趨,御上使掃部殿与竹画之御好有之由二而承知被成御帰候支とある。井伊掃部頭直幸が上使として滞京の折,京都町奉行を通じ「竹図」の依頼があり承知して帰ったというのであろう。これも「大鵬の竹」と喧伝された大鵬の墨竹の依頼であったものと思われる。ついで十一月十四日条には,伊予守殿よ里絵きぬ遺来候事がある。これは東町奉行小林伊予守春郷より画絹を届けてきたもので,これも大鵬ヘの染筆の依頼であったものと思われる。なお『黄槃山知客寮須知』には,画僧百拙.悟心・鶴亭などの伝記的記事が数多く見られる。これらについては『黄槃文化人名録』の原稿資料とすると共に,詳細については別に発表したい。以上調査結果の一端にふれたが,詳細については史料集成刊行の際に解説して報告したい。なお初期黄漿語録に見られる美術史史料としての内容をもつ語録や詩文集が,他宗派の僧侶や学者文人の著述として,元禄の頃から多数見られるようになる。逆に黄槃語録においてはその数を次第に減じ,一般文人社会の詩文集の盛行に応じ,美術史史料としての内容も豊富となる。すでに藤田経世氏による『皆川渫園文集抄』の校刊があるが,これらの史料集成も急務と考えられる。(10) 日本南画における「真景」の問題について研究者:宮城県立美術館学芸部長酒井哲朗調査研究の目的:中国に学んだ日本の南画が独自性を獲得するために,固有の自然体験とその表現か-121-
元のページ ../index.html#139