不可欠であったと思われる。そこで「真景」の問題に着目し,日本の南画における「真の位相を究明しようとするのが本研究の目的である。今回の調査では,①どのような真景図が描かれたか,②日本の南画家はこの問題をどのように考えたかーという点に焦点を当て,実作と画論の両面から調査し,若干の考察を加えようとするものである。本研究はさらに個々の画家の画業の中に真景図を位置づけた上で全体的な展望が与えられるべきものである。研究報日本の南画における真景図を実景に基いて描かれた作品とみなした場合,かなりの数にのぼるであろう。池大雅の真景図については,吉沢忠,武田光一氏らの論及があるが,大雅と同じ時代の南画家たちもまた真景を描いた。影城百川<近江京都名所図巻>,高芙蓉<富士川望富岳図>,木村蕉薮堂<富岳図>与謝蕪村<叙山望岳図>岳列松図><夜色楼台図>,平山高陽<山水図巻(京畿旅行の絵日記)><象潟図><塩釜観月図>,丹羽嘉言<神}|、l奇観図>など一連の大雅の<林外望湖図><児島湾真景図><日本十図>田能村竹田の「其屋宇橋梁布置黙景取諸邊邑僻境所有之憲景」(山中人饒舌)の蕪村評を念頭において,<春山晴光図>や<寒山晩帰図>を想起する時,彼らの詩的精神によって昇華された自然の景物'―れる。この時期の画家で,奇観図>の水彩画的表現は,嘉言が習得した筆法によって富士山を描いたというより,富士を描くために独自の表現を生みだしたというべきものであろう。大雅や蕪村は,真景の表現を実作において示すのみであったが,真景の問題を自覚的に提起したのは,次の世代に属する桑山玉洲であった。玉洲は画論「絵事郡言」の中で,「信二大雅出テヨリ,本朝ノ名山大澤真ノ面目ヲ生シタリ」として,大雅を日本南画の正統として位置づけ,「何地ニモアレ真景ヲ描キ試ムヘシ」と真景図の重要性を明言した。玉洲は初期の南頻系の写生画の影響を脱して,自己の南画様式を形成するにあたって,富岳,熊野,串本,和歌浦などに取材して多くの真景図を描き,殊に明光浦の画人を自称した玉洲にとって,<明光浦十覧冊>代表される和歌浦の真景は,重要な意義をもっている。に関して独自のあり方を示すのは丹羽嘉言である。<神州が日本南画に占める位相の一端が推察さ-122-の図等々である。などと蕪村の<夜色楼台
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